^の下に簡単な解説が貼られていた。このごみすて場からボロや古釘をひろって、祖母と彼のパンを買う「小銭を稼いだ」と。けれども、そこには、ごみすて場をあさっている少年ゴーリキイの写真は一枚もなかった。
 写真の列は年代を追って、伸子の前にカザンの市の眺望を示し、アゾフ海岸の景色や、近東風な風俗の群集が動いているチフリス市の光景をくりひろげた。解説は語っている。カザンで十五歳のゴーリキイを迎えたのは彼がそこへ入学したいと思ったカザン大学ではなくて、貧民窟と波止場人足。やがてパン焼職人として十四時間の労働であったと。ここにもゴーリキイそのひとは写っていない。
 伸子は、カバンの河岸という一枚の写真の前に立ちどまってしみじみ眺めた。ゴーリキイは、二十歳だった。そう解説は云っている。夜この河岸に坐って、ゴーリキイは水の面へ石を放りながらいつまでも三つの言葉をくりかえした。「俺は、どうしたら、いいんだ?」と。陳列されている写真の順でみると、それから間もなくゴーリキイはニージュニへかえり、ヴォルガの岸でピストル自殺をしかけている。苦しい、孤独な渾沌《こんとん》の時代。この時代にもゴーリキイは写真がない。
 黒い鍔びろ帽子を少しあみだにかぶって、ルバーシカの上に外套をひっかけ、日本の読者にもなじみの深いゴーリキイが、芸術家風というよりはむしろロシアの職人じみた長髪で、その荒削りの姿を写真の上に現しはじめたのは一九〇〇年になってからだった。その頃から急にどっさり、華々しい顔ぶれで撮影されている。記念写真のどれを見ても、当時のロシアとヨーロッパの真面目な人々が、ゴーリキイの出現に対して抱いた感動が伝えられていた。気むずかしげに角ばった老齢の大作家トルストイ。穏和なつよさと聰明のあふれているチェホフ。芸術座によって新しい劇運動をおこしはじめたスタニスラフスキーやダンチェンコ。だれもかれも、ロシアの人特有の本気さでゴーリキイとともに[#「ゴーリキイとともに」に傍点]レンズに顔をむけてうつされている。「マカール・チュードラ」「鷹の歌」「三人」やがて「小市民」と「どん底」などの古い版が数々の記念写真の下の台に陳列されはじめている。ゴーリキイは、ツァーの専制の下で無智と野蛮の中に生を浪費していた人民の中から、「非凡、善、不屈、美と名づけられる細片」をあつめ描きだした、と解説は感動をこめて云っているのだった。
 その展覧会はやっときのう開かれたばかりだった。まだ邪魔になるほどの人もいない明るくしずかな会場のそこのところを、伸子は一二度小戻りして眺めた。有名になり、作品があらわれてからのゴーリキイは、こんなに写真にとられ、その存在はすべての人から関心をもたれている。だけれども、それまでのゴーリキイ、生きるためにあんなに骨を折らなければならなかった子供のゴーリキイ。卑猥《ひわい》で無智だったパン焼職人の若い衆仲間のなかで、遂に死のうとしたほど苦しがっていた青年時代のゴーリキイ。それらの最も苦しかった時代のゴーリキイの写真は一枚もなくて、ただ彼の生へのたたかいのその背景となった町々ばかりが写されているということに、伸子はその場を去りがたい感銘をうけた。ありふれた世間のなかに、そのひとの道がきまったとき、人々はそのものの存在のために場所をあけ、賞讚さえ惜しまれず無数の写真をあらそってうつす。けれども、まだゴーリキイが子供で、その子がその境遇の中で、生きとおせるものか、生きとおせないものか、それさえ確かでなく餓えとたたかい悪とたたかってごみすて場をさまよっていたとき、そして、若いものになって、ごみくたのような生活の中に生きながら自分のなかで疼きはじめた成長の欲望とあてどのない可能の予感のために苦しみもだえているとき、周囲は、その生について知らず、無頓着だった。「三人」や「マカール・チュードラ」を文学作品としてほめる瞬間、人々はそこに自分の知らない生についてのロマンティックな感動をうけるだけで平安なのだろうか。
 ゴーリキイの幼年と青年時代を通じて、一枚の写真さえとられていない事実を発見して、伸子は新しく鋭く人生の一つの面を拓らかれたように感じた。トルストイの幼年時代の写真は全集にもついていた。レーニンも。チェホフはどうだったろう? 会場の窓ぎわに置かれている大きい皮ばりの長椅子にかけて休みながら、伸子は思い出そうとした。チェホフの写真として伸子の記憶にあるのは、どれも、ここにゴーリキイとうつっているような時代になってからのチェホフの姿ばかりだった。少年のチェホフの写真をみた人があるかしら。――記憶のあちこちをさぐっていた伸子は、一つのことにかっちりとせきとめられた。それはチェホフも少年時代はおそらく貧乏だったにちがいない、ということだった。チェホフの父は解放された農奴で
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