uリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》を歩いて行った。
「わたし、びっくりしちゃった」
歩きながら伸子が云った。
「あんな風に出来るのねえ。わたしは、本気で行くさきを考えて、苦心したのよ」
「ああでいいのさ」
日本服なら、片手はふところででもしていそうな散歩の気分で素子が答えた。
「先手をうてばいいのさ」
「――あの宮野ってひと……どういうんだと思う?」
まだこだわって、伸子が云い出した。
「ぶこちゃん、だいぶ神経質になってるね」
「たしかにそうだわ。曖昧なんだもの――西片町の兄さんだのって――誰だって外国にいるとき、お金のことはもっと本気よ。まるで帰れと言われればすぐ帰る人間みたいじゃないの。あの話しぶり……」
宮野という男が、室を出入りするとき妙にあたりの空気を動かさないで自分の体だけその場から抜いてゆくような感じだったことを思い出して、伸子は、それにもいい心持がしなかった。たとえば内海厚という人などにしても、どういう目的で秋山宇一と一緒にソヴェトに来ているのか、伸子たちにはちっともわかっていなかった。秋山宇一が日本へかえっても、彼だけはあとにのこるらしいくちぶりだけれど、それとてもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でどんな生活をやって行こうとしているのか、伸子たちはしらない。知らないなりに、内海厚の万端のものごしはあたりまえで、あたりまえにがたついていて、伸子たちに不審の心を抱かせる点がなかった。
「――まあ、どうせいろんな人間がいるんだろうさ、それはそれなりにあしらっとけばいいのさ。――何もわたしたちがわるいことしてやしまいし……」
「そりゃそうよ。もちろんそうだわ。誰だって、ここでわるいことなんてしようとしてやしないのに――ソヴェトの人たち自身だってもよ――なぜ……」
伸子はつまって言葉をきった。伸子も宮野という人を、暗い職業人だと断定してしまうことは憚られた。しばらく黙って歩きながら、やがて低い、不機嫌な声で続けた。
「――嗅《か》ぎまわるみたいなのさ!」
「そんなこと、むこうの勝手じゃないか。こっちのかまったこっちゃありゃしない」
伸子たちは、いつか並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》が、アルバート広場で中断される地点まで来た。トゥウェルスカヤの大通りが並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》を横切っているところにはプーシュキンの像が建っていた。ここの並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》のつき当りには、ロシアの子供たちのために無数の寓話物語を与えたクルィロフの坐像が飾られていた。部屋着のようなゆるやかな服装で楽々と椅子にかけ、いくらか前こごみになって何か話してきかせているような老作家クルィロフの膝の前に、三四人の子供が顔を仰向けてそれにきき入っている群像だった。その台座には、クルィロフの寓話に描かれた、いくつもの有名な情景が厚肉の浮彫りでほりつけられている。伸子たちはしばらくそこに立って、芽立とうとする菩提樹を背にした親しみぶかいクルィロフの坐像と、そのぐるりで雪どけ水をしぶかせながら遊んでいるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の子供たちを眺めていた。日曜の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》には父親や母親とつれ立って歩いている子供たちがどっさりあり、長外套をつけ、赤い星のついた尖り帽をかぶった赤軍の兵士が、小さい子の手をひいて幾組も歩いている姿が伸子に印象ふかかった。
並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》からアルバート広場へ出て、一軒の屋台店《キオスク》の前を通りがかったとき、伸子は、
「あれなんだろう」
と、その店先へよって行った。売り出されたばかりの「プロジェクトル」というグラフ雑誌が表紙いっぱいにゴーリキイの写真をのせて、幾冊も紐から吊り下げられていた。
三
その展覧会場の最後の仕切りの部分まで見終ると、伸子はゆっくり引かえして、また一番はじめのところへもどって行った。
作家生活の三十年を記念するゴーリキイの展覧会のそこには、マルクス・レーニン研究所から出品された様々の写真や書類が陳列されていた。けれども、おしまいまで何心なく見て行った伸子は、これだけの写真の数の中にゴーリキイの子供の時分を撮《うつ》したものは見なかったような気がした。けれども、見なかったということも、確かでなかった。
伸子は、またはじめっから、仕切りの壁に沿って見なおして行った。マクシム・ゴーリキイが生れて育った古いニージュニ・ノヴゴロドの市の全景がある。ヴォルガ河の船つき場や荷揚人足の群の写真があり、ニージュニの町はずれの大きなごみすて場のあったあたりもうつされている。写
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