ネい予感もするのだった。伸子は、思案にあまって台所にしばらく立っていた。どうしたら、自然にわけのわからない応対をうちきることが出来るだろう。
ややしばらくして、伸子は思いこんだような顔つきになって、室へ戻って行った。そして、苦しそうな、せっぱつまった調子で、
「ねえ」
と素子に云いかけた。
「失礼だけれど、わたしたち、そろそろ時間じゃない?」
素子は、この突然の謎をとくだろうか。その日曜に外出の約束なんか二人の間に一つもありはしなかったのだから。素子は、
「ああ」
と、ぼんやり答えたぎり、窓のそとにキラキラするフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根の方を眺めてタバコをふかしている。宮野は伸子がそう云い出しても帰りそうな気配がなかった。
伸子は、また落付かなくなって室を出た。自分たちも出かけるにしろ、伸子は行先にこまった。日曜にあいているところ、そして、男はついて来にくいようなところ、どこがそういう場所だろう。伸子は、やっと裁縫師のところを思いついた。室へ戻ると、それをきっかけのように素子がテーブルのあっち側に立ち上った。
「じゃ、出かけましょうか」
ひどくあっさりときり出した。
「あなたもその辺まで御一緒に、いかがです?」
素子独特の淡白さで、着がえのために宮野に室から出て貰った。衣裳ダンスの前で上衣を出しかけている素子の耳へ口をよせて伸子が心配そうにささやいた。
「行くところ、わかってる?」
素子はニヤリとした。そしてテーブルのところへ行って引出しから財布を出しながら、そばへよって行った伸子にだけきこえる声で、
「ついて来りゃいいのさ」
と云った。
外へ出ると、春のはじめの快晴の日曜日らしさが町にも並木道の上にもあふれていた。ふだんよりゆっくり歩いている通行人たちはまだ防寒外套こそ着ているけれども、膝頭まであるワーレンキがたいてい軽いゴムのオヴァ・シューズだった。車道との間にはとけたきたない雪だまりと雪どけ水の小川が出来ているが、きょうは歩道の真中が乾いて石があらわれている。伸子たちにとっては、春がきたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の歩道をじかに踏む第一日だった。
「――乾きはじめたわねえ」
伸子は天気のよさをよろこびながら、こんな事情で出て来たことを辛がっている声でつぶやいた。
素子は三人のすこし先に立つようにアストージェンカの角まで来た。そこで、立ちどまった。そして、
「宮野さん、どっちです?」
ふりむくようにしてきいた。折から、左手のゆるやかな坂の方から劇場広場の方向へゆく電車がのんびりした日曜日の速力で来かかっている。
伸子たちが住んでいる建物の板囲いからいくらも来ていないのに、いきなり素子からそうきかれて、宮野は間誤《まご》ついたらしかった。口のうちで、さあ、とつぶやきながら、うっとうしそうな睫毛をしばたたいた。
「――僕は、『赤い罌粟』の切符を買いに行っておきましょう」
「じゃ」
素子が、鞣帽子をかぶっている頭をちょいと下げて会釈した。
「わたしたち、こっちですから……」
宮野は鳥打帽のふちに手をかけた。
「レーニングラードへいらっしゃることもあるでしょうから――いずれまたゆっくりあちらでお目にかかります」
こうして宮野は電車の停留場のところへのこった。
伸子たちは、自然、停留場のあるその町角をつっきって、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》へ入った。並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》も、よごれた雪の堆積がまだどっさりあるけれども、真中にひとすじ、柔かなしっとりした黒い土があらわれている。名残りの雪がその辺の到るところにあるだけに、その間にひとすじのあらわれた黒い土は、胸のときめくような新鮮さだった。艷と、もう芽立ちの用意のみえる並木道の菩提樹や楓《かえで》のしなやかさをました枝のこまやかなかげは、その樹々の根っこに残雪をもって瑞々しさはひとしお感覚に迫った。
得体のしれない客に気分を圧しつけられていた伸子はしっとりした黒い土の上の道を、往き来の群集にまじって歩きながらふかい溜息をつくように、
「ああ、防寒靴《ガローシ》をぬいでしまいたい!」
と云った。冬のぼてついたものは、みんな体からぬいでしまいたい。早春の日曜日の並木道は、すべての人々をそういう心持にさせる風景だった。それでも、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]人は北方の季節の重厚なうつりかわりをよく知っていて、まだガローシをぬいでいるものはなかったし、外套のボタンをはずしているものもなかった。とける雪、暖くしめった大地、芽立とうとしている樹木のかすかな樹液のにおい。それらが交りあって柔かく濃い空気をたのしみながら、伸子と素子とはしばらくだまって並木道《
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