ンスを浮べて、
「秋山さんは、コーカサス美人がすっかり気に入りましてね、日本の女によく似ているって、とてもよろこばれたですよ」
と云った。室の入口にぬいでかけた外套のポケットから、ロシアタバコの大型の箱を出して、テーブルのところへ来た素子が、瀬川に、
「いろいろお世話さまでした」
律義にお辞儀をした。
「しかし、なんですね、あの美人も美人だがカーメネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]という女も相当なもんだ」
「…………」
秋山はだまって目をしばたたいた。瀬川も黙っている。瀬川としては、素子がそれをおこっているように、夫人が、あれほどのおくりものに対してろくな礼も云わなかったということを認めにくい感情があるらしかった。黙って、タバコの煙をはいた。
「あのひとはいつも、あんな風なんですか」
くい下っている素子に秋山が、あたらずさわらずに、
「どっちかというと堅い感じのひとですがね、そう云えるでしょうね」
同意を求められた瀬川は、
「元来あんまり物を云わない人ですね」
そう云った。そして、つづけて、
「しかし、わたしはカーメネ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人が、あの|ВОКС《ヴオクス》の会長をしている、という事実に興味があると思いますね。ある意味では、ソヴェトというところの、政治的な大胆さを雄弁に示しているとも云えるでしょう。トロツキストに対して、これだけ批判されている最中、その女きょうだいを、ああいう地位に平気でつけているのは面白いですよ」
秋山宇一が、小柄なその体にふさわしく小さい両方の手をもみ合わせるようにして、よく彼が演壇でする身ぶりをしながら、
「カーメネフは追放されているんですからね、ジノヴィエフと一緒に――」
素子は、だまっていたが、やがて、きわめて皮肉な笑いかたをして、
「なるほどね」
と云った。
「|ВОКС《ヴオクス》へ来るすべての外国人は、そういう点で一応感服するというわけか。――わるくない方法じゃありませんか」
どういうことがあるにしろ、自分はいやだと云いたい一種の強情を示して、素子は、
「あんな女のいる|ВОКС《ヴオクス》の世話になるのは、いかにもぞっとしないね」
と云った。それをきいて秋山がすこし気色ばんだ。小さい眼に力の入った表情になった。
「それは個人的な感情ですよ。――ソヴェトの複雑さを理解するためには、いつも虚心坦懐であることが必要です」
「吉見さん、あなたは第一日からなかなか辛辣なんですねえ」
瀬川が、苦笑に似たように笑った。
「けれど吉見さん、ああいう文化施設はあっていいものだと思われませんか」
そうきいたのは内海であった。
「それについちゃ異存ありませんね」
「施設と、そこで現実にやっている仕事の価値が、要するに問題なんじゃないですか」
「…………」
「ああいうところも、よそと同じように委員制でやっているから、一人の傾向だけでどうなるというもんではないんでしょう」
内海の言葉を補足するように、秋山がつけ加えた。
「|ВОКС《ヴオクス》は、政治的中枢からはなれた部署ですからね。ああいう複雑な立場のひとを置くに、いいんでしょう」
伸子は、みんなのひとこともききもらすまいと耳を傾けた。これらはすべて日本語で語られているにしても、伸子が東京ではきいたことのない議論だった。そして、きのうまでのシベリア鉄道で動揺のひどい車室で過された素子と伸子との一週間にも。
「どうしました、佐々さん」
瀬川が、さっきから一言も話さずそこにいる伸子に顔をむけて云った。
「つかれましたか」
「いいえ」
「じゃあどうしました?」
「どうもしやしないけれど――早くロシア語がわかるようになりたいわ。|ВОКС《ヴオクス》の建物一つみたって、あんなに面白いんですもの。――ここは、いやなものまでが面白い、不思議なところね」
「いやなものまでが面白いか……ハハハハ。全くそうかもしれない!」
同感をもって瀬川は笑い、彼の快活をとりもどした。
「これからはお互にかけちがうことが多いから、きょうは御一緒に正餐《アベード》しましょう」
瀬川がそう提案した。ホテルの食堂は、階上のすべての部屋部屋と同じように緑仕上の壁を持っていた。普通の室に作られているものを、食堂にしたらしい狭さで、並んでいるテーブルには、テーブル・クローズの代りに白いザラ紙がひろげられて、粗末なナイフ、フォーク、大小のスプーンが用意されている。午後三時だけれど、夕方のようで、よその建物の屋根を低く見おろす二つの窓には、くらくなった空から一日じゅう、同じ迅さで降っている雪の景色があった。伸子たちがかけた中央の長テーブルの上には、花が飾ってあった。大輪な薄紫の西洋菊が咲いている鉢なのだが、花のまわり、鉢のまわりを薄桃色に染めら
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