※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夫人の、奥歯をかみしめたまま顔に浮べているような渋い鈍重な笑顔とは比較にならないほど、酸っぱい渋い鋭い微笑であった。伸子は素子のその一瞬の複雑きわまる口もとの皺をとらえた。伸子は、この部屋に案内されてからはじめてほんものの微笑をうかべた。
伸子たちのおくりものに対しても、夫人は、ごく短い一言ずつで、美しさをほめただけだった。ありがとうという言葉は夫人として云わない習慣らしかった。
こういう贈呈の儀式がすむと、夫人は再び黙りこんだ。瀬川雅夫の言葉は自由でも、それを活用する自然なきっかけが明るい寒色の広間のどこにもなかった。三人は、そこで、会見は終ったものとしてそとに出た。
ドアをしめるのを待ちかねたようにして、素子が、
「おっそろしく気づまりなんですね、文化連絡って、あんなものかい」
と、ひどくおこった調子で云った。
「どんなえらい女かしらないけれど、ありがとうぐらい云ったって、こけんにかかわりもしまいのに」
瀬川はおどろいたように鼻の下の黒い髭を動かして、
「云いましたよ! ね、云ったでしょう?」
並んで歩いている伸子をかえりみた。
「さあ……わたしは、ききませんでした。――いつも、ああいう人なの?」
「そうですか? 変だなあ、……云いませんでしたか。云ったとばかり思ったがな」
「――まるでお言葉をたまわる[#「お言葉をたまわる」に傍点]、みたいで、おそれいっちまうな」
瀬川は、素子のその言葉は上の空にきいて、内心しきりに、夫人がありがとうと云わなかったというのが事実だったかどうか、思いかえしている風だった。
そこへ、廊下のかどからノヴァミルスキーが出て来た。そして、うすい人参色のばさっとした眉毛の下から敏捷《びんしょう》な灰色の視線を動かして、夫人と会見を終って来た三人の表情をよみとろうとした。何か云いかけたがノヴァミルスキーは聰明にそれをのみこんでしまった。みんなは黙ったまま表玄関わきの、美人ゴルシュキナを中心に陽気にごたついている応接室へ戻った。
|ВОКС《ヴオクス》の建物のあるマーラヤ・ニキーツカヤの通りを数丁先へ行ったところで、この通りは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を環状にとりまいている二本の大並木道の第一の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》にぶつかった。遊歩道のそと側をゆっくり電車が通っていた。ここでマーラヤ・ニキーツカヤから来た道は五の放射状に岐《わか》れた。むかしはそこにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ入る一つの門《ワロータ》があったものと見えてニキーツキー門とよばれている。瀬川雅夫に説明されながら、橇の上からちらりと見た並木道は、同じはやさで降っている雪をとおして、重そうな雪を枝へ積らしている菩提樹の大きい樹々が遠くまで連って美しく見えた。並木の遊歩道には、雪のつもったベンチがあり、街路の後姿をみせて並木道のはずれに高く立っている誰かの銅像の大外套の深い襞は、風をうける方の側にばかり雪の吹きだまりをつけている。
伸子たちの橇は、そこでたてよこ五つに岐れる道のたての一本の通りを、斜かいに進んで行った。そこは商店街でなかった。鉄扉は堂々としているがその奥には煤《すす》によごれて荒れた大きい五階建の建物の見える前や、せまい歩道に沿って田舎っぽく海老茶色に塗った木造の小家が古びて傾きかかっているところなどをとおった。近代のヨーロッパ風の建物と、旧いロシアの木造小舎とが一つ歩道の上に立ち並んでいて、盛に雪の降っている風景は、伸子に深い印象を与えた。
日本の大使館は、どことなく不揃いで、その不揃いなところに趣のある淋しい通りの右側に、どっしりした門と内庭と馬車まわしとをもって建っていた。伸子たちは、車よせのついた表玄関の手前にある一つの入口から、いきなり二階の事務室の前の廊下へ出た。瀬川の紹介で、伸子たちは、自分たちの姓名、住所をかき、郵便物の保管をたのんだ。参事官である人は外出中で、伸子はその人の友人である文明社の社長から、貰って来た紹介状は出さないまま帰途についた。
ホテルに戻った三人は、そのままどやどやと秋山宇一の室へ入って行った。
「や、おかえんなさい」
「どうでした、おひげさんを見て来ましたか」
面白そうに秋山が小さい眼を輝かしてすぐ訊いた。
「おひげさんて?」
「ああ、あのアルメニア美人は上唇のわきに髭があるんです」
そう云えば、赤い円い上唇の上に和毛《にこげ》のかげがあった。|ВОКС《ヴオクス》の美人については、秋山宇一がこまかい点まで見きわめているのが可笑《おか》しかった。
「会いました……いきいきした人ね」
「なかなか大したものでしょう」
内海厚が、生真面目な表情に一種のニュア
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