潤A1−7−82]ール》もついそこらしい。それらの好条件は却《かえ》って伸子と素子を信じがたい気持にさせた。リンゴを四つ割にした一片のような角度で、トゥウェルスカヤからなら歩いてだって行ける距離だった。二人はマリア・グレゴーリエヴナと、そのアストージェンカを包括する何倍かの円周でモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうをさがしまわったのだ。
「妙だな……ともかく、ぶこちゃん、見るだけ見といでよ、どんなところだか」
「ひとりで?」
 出しぶって伸子が素子を見た。
「ともかく、散歩のつもりで行って見てさ、ね。ほんのついそこじゃないか。一番近いところから片づけて行こうよ」
 小一時間たったとき、伸子が、ホテルの階段を駈けあがるようにして戻って来た。ノックもしないで自分たちの室のドアをあけるなり、
「ちょっと! すばらしいの。――早く来て」
 手袋をはめたなりの手で、素子の外套を壁からはずした。
「すぐ、友達をつれて来るからって、待ってもらっているんだから」
「ほんとかい?」
「ほんと! 絶対のがされないわ」
 二人は大急ぎで狩人広場まで出て、そこから電車にのった。
「よっぽど先かい?」
「四つめ」
 クレムリンをすぎると、左手の小高い丘の雪の上に、金ぴかの大きな円屋根と十字架をきらめかして建っている大きな教会があった。その停留場で伸子たちは電車を降りた。
「おや、まるでこりゃ並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の根っこじゃないか」
「そうなのよ!」
 亢奮している伸子はさきに立って、すぐその右手からはじまっている並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》とは反対の方角へ折れた。茶色外套をきた素子は、鞣帽子をかぶって、伸子と並び歩道の外側をついて来る。その歩道を一ブロック行った右手に、板囲いが立っていて、木戸があいていた。それは、まだ未完成な普請場によく見うけられるような板囲いと木戸だった。板囲いの上に、「この内に便所なし」と大きく書いたはり紙がされている、伸子は、わざと素子に予告なしで急にその木戸を入った。
「なんだ、こんなとこを入るのか」
 素子もついて木戸の中へ入ると、樽だの古材だのが雪の下からのぞいている細長い空地があって、そこをぬけるとかなりひろい内庭へ出た。雪の上に四本黒く踏つけ道がついている。コンクリートの新しいしっかりした五階の建物が、コの字形にその内庭をかこんで建っていた。
 伸子は、まだ黙ったまま、四本の踏みつけ道の一番とっつきの一本を辿って、一つの入口から、階段をのぼりはじめた。
 入口や階段口にはむき出しの電燈がともっていた。コンクリート床の隅に、建築につかったあまりらしいセメント袋がつみ重ねられたままある。手すりもコンクリートで武骨にうち出されている。あんまりひろくない階段を、伸子は、素子をおどろかしているのがうれしくてたまらない顔つきで、一歩一歩無言のままのぼった。建築されてからまだ一二年しか経っていないらしいその大きい建物の内部は、適度な煖房のあたたかみにまじってかすかにコンクリートの匂いをさせている。
 三階へのぼり切ると、伸子は防寒扉の黒いおもてに35と白ペンキで書いた扉の前にとまった。
「ここなの」
「なるほどね。これじゃ、ぶこちゃんが亢奮するのも尤だ」
 さっき伸子が一人で見に来たときには、髪にマルセル・ウェーヴをかけて、紺のワンピースをきた大柄な細君と五つばかりの男の児しかいなかった。こんどは、赭《あか》っぽい鼻髭をつけ、藪のような眉をした丸顔のルイバコフそのひとが帰って来ていた。入口に、ソヴェトの技師たちがみんなかぶる緑色の鍔《つば》つき帽がかかっていた。
 ルイバコフの話によれば、建物は、鉄道労働者組合の住宅協同部が建てたものなのだそうだった。
「鉄道の組合は、ソヴェトの労働組合でも化学をのぞけば最も大規模な一つですからね、おそらく、この建物は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に建った組合の建物の中じゃ、一番早かった部でしょう」
 十年の年賦がすむと、その四つの部屋と浴室、共同の物干場をもったアパートメントはルイバコフの所有になるのだった。あいている一室を利用することは伸子たちの便利と同時に、ルイバコフの経済にも便利だ。従って室代も決して不合理には要求しようと思わない。
 そんな話を、ルイバコフ夫婦、伸子、素子の四人がこれから借りようとし、貸そうとしている室で話しあったのだったが、赭っぽい鼻髭のルイバコフは人はわるくないがいくらか慾ふかそうな顔つきで、その室の入口の左手に置いてある衣裳箪笥にもたれて立って話している。マルセル・ウェーヴがやや不釣合な身だしなみに見える味のない大柄な細君はドアを入ってすぐのところで、縦におかれている寝台の裾
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