オい独占的な情のこわさと、その娘で、その情のはげしさやこわさでよく似ている自分とが、向きあっている姿を感じるのだった。
外套をぬいで水色のブルーズ姿になった伸子は、ちょっと長椅子にかけていた体をまたおこして、清潔につや出しをされた茶色の床の上をあっちこっち歩きはじめた。
保の心のやわらかさは、こうして伸子に自分の心のきめの粗雑さを感じさせ、そのことで恥しささえ感じさせている。多計代のきらいなところが、自分にあることをかえりみさせる。だけれども、そうだからと云って、保の心の柔かさにうたれることで、伸子は自分の生きかたを保の道に譲ってしまうことは思いもよらなかったし、保のゆえに多計代の生きかたと妥協してしまうことも考えられなかった。
二重窓の前に立ちどまって、かすかにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬の日向のぬくみがつたわっている内ガラスに額をおっつけ、黒い鉄骨と日かげに凍りついている薄よごれた雪を見ながら、伸子は心に一つの画面を感じた。そこは海の面であった。海の面はこまやかな日光にきらめき、時々雲が通りすぎると薄ら曇り、純粋でいのちをもっている。そのむこうに断崖が見える。断崖の上は青草がしげって、その青草の上にも、断崖の中腹にも、海の上と同じ日光がさしていて、断崖の根は海に洗われている。夜もひるも、断崖の根は海に洗われており、海はその断崖のために波をあげている。だけれども、断崖は海でなく、海は断崖ではない。しかし一つ自然の光のなかにつつまれて、そうしている。
海がそうなのか、断崖がそうなのか分らなかったが、伸子はそこに自分と保との存在を感じた。調停派ということは、決して調停されることはない人々によってつけられる名だ。海と断崖の心の絵の上に、伸子は、異様な鮮明さで、はっとしたように理解した。保が同級生から、佐々はバカだ。生れつきの調停派だと罵られたことを、いつか動坂のうちの客間できいた。あのとき伸子は、保のものの考えかたについてばかり、調停派ということを理解した。保の友達たちは、やっと伸子にいま、わかったこともふくめてそう云ったのにちがいなかった。考えかたや理窟だけでなく、保の心の悲しいくらいの柔かさが、柔かさそのもので、いくつかの心を若々しい一本気な追究から撓わせそうにする。保の友人たちには、保のその異様な柔らかさが、いやなのだ。だといって、保に、自分の心のそんな柔かさをどうすることが出来るだろう……。
伸子は、三月近いモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のよごれてふくらみのへった雪の見えるホテルの二重窓の前に長いあいだ佇んでいた。
第二章
一
それは、ほんとに狭い室だった。ヴェラ・ケンペルが彼女夫婦の暮している鰻《うなぎ》の寝床のように細くて奥ゆきばかりある住居をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の壁と壁とのわれめ、といったのが当っているとすれば、伸子と素子とがアストージェンカの町角にある建物の三階に見つけた部屋は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の壁と窓とのすき間住居と云うようだった。
マリア・グレゴーリエヴナと、三人であっちこっちさがして歩いた貸間には住めそうなところがなくて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊に出した求室広告に案外三通、反応があった。
一通はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河の向う岸にいる家主からだった。一通はトゥウェルスカヤの大通りをずっと下って鷲の森公園に近いところ。最後の一通がアストージェンカ一番地、エフ・ルイバコフという男からだった。
「変だな、ただアストージェンカきりで、町とも何ともないんだね、どの辺なんだろう」
その手紙は、ぞんざいに切った黄色い紙片に、字の上をこすったり濡《ぬら》したりすると紫インクで書いたように色が浮きでて消えない化学鉛筆で書いてあった。簡単に、われわれのところに、あなたがたの希望条件に叶《かな》った一室がある、お見せすることが出来る、という男文字の文面だった。ひろげたその手紙とひき合わすように、テーブルの上にかがみかかってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]市街地図をしらべていた素子が、
「へえ。――こんなところに、こんな名がついているんだね。ぶこちゃん! 場所はいかにも、もって来いだよ」
地図をみると伸子たちがいるホテル・パッサージから狩人広場へ出て、ずっと右へ行き、クレムリンの外廓を通りすぎたところにデルタのようにつき出た小区画があって、そこがアストージェンカだった。
「一番地て云えば、とっつきなんだろうな」
地図に見えている様子だと、そこはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河にも近いらしいし、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名
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