ニだと思う」に傍線]、と。
 伸子は、考えるとき時々クンクンと鼻の奥をならす保の初々しい和毛のくまのある瞼の腫れぼったい顔や、小さくなった制服のズボンの大きい膝が、雪の中に立ってよんでいる自分のすぐそのそこにあるように感じた。これは大変恥しいことだと思う[#「これは大変恥しいことだと思う」に傍線]。――そして伸子は自分の心にもその一本の線が通ったのを感じた。恥しいことだと思う[#「恥しいことだと思う」に傍線]、と。伸子が勢はげしく保へあててあの手紙をかいたとき、こんなに軟く深い黒土の上にくっきりと轍《わだち》のあとをつけるように保の心にひとすじの線をひくことまでを思いもうけていたろうか。
 門のわきの番小舎の戸があいた。大外套をきた門番が伸子の立っている庭の方へ来かかった。番人は、そこにいたのが時々見かける伸子だとわかると、
「こんにちは」
と、防寒帽のふちに指さきをあてた。そして、伸子がよんでいるハガキに目をくれながら通りすぎた。番人とは反対の方向へ、大使館の門の方へ伸子も歩き出した。歩きながら、ハガキをよみおわった。温室は、折角こしらえて頂いたものだから、みんなのよろこぶように使いたい。この夏はメロンを栽培してお父様、お母様そのほかうちのみんなにたべて貰おうと思う。そうかいたハガキの終りに、やっと余白をみつけて、
「僕は姉さんにもっと手紙を書きたいと思っている」
と、その一行は本文よりも一層こまかい字で書かれていた。ハガキはそれで全部だった。
 並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》のベンチの前には乳母車がどっさり並んで赤坊たちの日光浴をやっていた。遊歩道の上で安心しきっておっかけっこをしている小さい子供らが、外套の上から毛糸の頸巻きをうしろでしょっきり[#「しょっきり」に傍点]結びにされたかっこうで、駈けて来ては通行人にぶつかりそうになる。伸子は、物思いにとらわれた優しい顔つきで、いちいち、つき当りそうになる子供たちの体に手をかけて、それを丁寧によけながら、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊社のある広場まで歩いて行った。僕は姉さんにもっと手紙を書きたいと思っている。――保がそう云っているのはどういう意味なのだろう。日頃から、もっと書きたいと思っている、というわけなのだろうか。それとも、これからはもっとちょくちょく書きたいと思っている、ということなのだろうか。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊社で広告を出す用事をすまし、トゥウェルスカヤの大通りへ出てホテルへ帰って来ながら、伸子は、そのことばかり考えつづけた。保がこれからはもっと伸子へ手紙を書きたいと思っているというだけならば、保の手紙にこもっている姉への感情からも、すらりとのみこめることだった。これまでも、もっと手紙をかきたいと思っている保の心もちが伝えられたのだとすると、伸子は、きょうの保からのたよりがハガキで来ていることにさえ、そこに作用している多計代の指図を推測しずにいられなかった。書いてある字のよめない人たちばかりの外国にいる姉へやるのだから、こんなに心もちをじかに語っているたよりも保はハガキで書いたのかもしれなかった。けれども、姉さんへ返事をかくならハガキにおし。そして、出すまえに見せるんですよ。そう保に向って云わない多計代ではなかった。
 伸子は、素子も出かけて留守の、しんとした昼間のホテルの室へかえって来た。二重窓のガラスに、真向いの鉄骨ばかりの大屋根ごしの日があたっていて、日が、角テーブルのはずれまであたっている。抱えて帰って来た郵便物の束をそのテーブルにおろしてゆっくり手袋をとり、外套をぬいでいる伸子の目が、テーブルの上の本のつみかさなりの間にある白い紙の畳んだものの上に落ちた。それは、多計代の手紙だった。「そのあなたが、ロシアへ行ってからの生活で」というところまで読んで、伸子が、躯のふるえるような嫌悪からもう一字もその先はよまずに、そこへおいた多計代の手紙だった。封筒から出された手紙は、厚いたたみめをふくらませ、幾枚も重なった用箋の端をぱらっと開きながら、そこに横たわっている。
 明るいしずかなホテルの室で外套のボタンをはずしている伸子の胸に、悲しさがひろがった。保の心はあんまり柔かい。その柔かさは、伸子に自分のこころのいかつさを感じさせる。伸子が自分として考えかたの正しさを信じながら保に向ってそれをあらわしたとき、そのときは気がつかなかった威勢のよさや能弁があったことを反省させ、伸子にひそかな、つよい恥しさを感じさせるのだった。伸子が、それをうけ入れようとする気さえ失わせる多計代の能弁は、手紙となってそこの机の上にさらされている。悲しいほど柔かい保の心をなかにして思うと、伸子は、多計代の保に対するはげ
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