ノ一メートルばかりあいたところがある、そこに佇んでいる。寝台の頭と直角に壁をふさいでいるもう一つの寝台兼用の皮張り大型ディヴァンに素子がかけ、ディヴァンに向ってその室の幅いっぱいの長テーブルのこっち側の椅子に伸子が横向きにかけていた。小さな室はアストージェンカの角を占める建物の外側に面しているので伸子のうしろの窓からは雪の丘と大教会が目のさきに見えた。素子が奥のディヴァンにおさまっているのは、そこを選んでかけた、というよりも、むしろそっちへ行ってみていた彼女のあとから伸子やルイバコフ夫妻がつめかけたので、素子はディヴァンと長テーブルとの間から出られなくなってしまっている、という方がふさわしかった。そんなにそれは小さな室なのだった。

 伸子たちこそ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]市街地図の上でさがさなければならない一区画であったが、アストージェンカと云えば、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人には知られている場所だった。伸子が、遠くから金色にきらめいて見える円屋根を、目じるしにして電車を降りた小高い丘の上の大寺院はフラム・フリスタ・スパシーチェリヤ(キリスト感謝寺院)とよばれていて、一八一二年、ナポレオンがモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を敗走したあと、ロシアの勝利の記念のために建てられたものだった。ロシアじゅうから種類のちがう大理石を運びあつめてその大建造がされたこと、大円屋根が本ものの金でふかれていること、大小六つの鐘の音は特別美しく響いて聳えている鐘楼からモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の果まできこえる、ということなどでこの寺院はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の一つの有名物らしかった。ナポレオンが、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の焼けるのをその上に立って眺めたという雀ケ丘と、遙かに相対す位置に建てられたというから、おそらく十九世紀はじめのアストージェンカは、クレムリンの城壁を出はずれたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸の寂しく郊外めいた一画であったのだろう。そして、遊山がてら、フラム・フリスタ・スパシーチェリヤを見に来るモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]人たちは、きっと雪のつもった並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》に橇の鈴をならしてやって来て、雪にふさがれている寺院のウラル大理石の大階段のところから真白な淋しくおごそかな四方の雪景色を眺めやったことだろう。
 フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの建っている丘の周囲は、石の胸壁をめぐらされ、一本の狭い歩道がぐるりとその胸壁の下をまわって、川に面した寺院の正面石段から下りて来たところの道に合している。もう一本、伸子たちが出入りするアストージェンカ一番地の板囲いの前をとおっている歩道が、ずっと河岸近くまで行ったつき当りのようなところに、賑やかな色彩のタイルをはめこんだペルシア公使館の建物があった。河岸はどこでも淋しい。その上に、雪にとざされて、交通人の絶えているフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの大階段のあたりは眺望が展《ひら》けているだけに寂寥がみちていた。
 アストージェンカ一番地という場所は、面白い位置だった。河岸はそんなに荒涼とし、淋しさにつつまれているけれども、電車がとおる道の方は、三四流の商店街で、夜でも雪の歩道に灯が流れた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を、半円にかこんでいる二本の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の内側の一本が、丁度フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの真前の小さい広場のところからはじまっていて、その辺にはいつも子供や買物籠を下げた女の姿があり、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》のはじまるところらしい、ごちゃついたざわめきがあった。ニキーツキー門を通って来る電車の終点がこの並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の外にあった。並木道の下の停留場ですっかり客をおろした電車は、空のまま戻って行ってすこし先の別の停留場から新しい客をのせた。電車の停留場のある通りは家々の正面の窓から並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の雪の梢が眺められる住宅街である。
 ひとが、或る町に住んでいて、やがてもうそこには住まなくなる。そのことには、何か不思議な感覚があった。伸子たちの窓からみえる景色が、トゥウェルスカヤ大通りの裏側のこわれた大屋根の鉄骨ではなくなって、アストージェンカの大きいばかりで趣味のないフラム・フリスタ・スパシーチェリヤであり、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》の入口の光景であるということは、何か不思議な感じだった。

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