Nの夏、レーニングラードのパンシオン・ソモロフにいたとき、同じ宿に重い心臓病の元看護婦長ペラーゲア・スチェパーノヴァという女がとまっていた。青ぶくれて、ときによると夜眠れないほど息苦しい大柄のペラーゲア・スチェパーノヴァは、幾日もつづけて自分の部屋から出て来られないことが多かった。ある日、彼女がめずらしく正餐《アベード》に列席した。同じ食卓についていた高級技師の細君であるリザ・フョードロヴナがそのときペラーゲアの病気に同情をしめして、部屋にとじこもっていなければならないのは退屈なものだ、と云った。すると、ペラーゲア・スチェパーノヴァは、蒼くむくんだ顔の上で薄い眉毛をもち上げるような表情になりながら、
「たまったものじゃありません《ウジャースノ》」
と云った。
「わたしは、窓から子供たちに菓子を投げてやるんです」
わきできいていた素子や伸子に、すぐにはその意味がのみこめなかったほど、ペラーゲア・スチェパーノヴァの云いかたには、愛情もやさしみもなかった。投げてやる菓子そのものへの軽蔑があるかのような調子だった。伸子はそのときおどろいて素子に云った。
「窓の外の雀にパン屑をやるんだって、人は、もっとちがった云いかたをするものだと思うわ。あのひとは、心の底には憎悪をもって、子供たちに菓子を投げているのね、きっと。ソヴェトになったって、貧乏人の子供は、ほれ、この菓子をひろうじゃないか、あのひとは、そう思って、凄い顔つきで、お菓子を投げてやって、ひろうのを眺めるんだわ」
ペラーゲア・スチェパーノヴァは、革命やソヴェトや、地方で地主に反抗した農民に対してはげしい、病的な憎悪をもっている女だった。伸子と素子とは、反ソヴェト的な市民というもののいくとおりかのタイプを、芝居でみるよりも近く、会話一つ一つのこまかい心理にふれて、パンシオン・ソモロフのひと夏の生活のうちに観察した。
素子は、自分にむかって皮肉なうす笑いをもらして、窓のそばをはなれた。内庭でオールゴールを鳴らしている辻音楽師にとって、必要なのは十サンティームであり、それが投げて与えられる[#「投げて与えられる」に傍点]、ことが問題でないのはわかりきっていたから。わかりきっていても、何となしそうできにくくなっている自分の、人間として人間に対する感情を、素子は、思いがけない自分を見出したように眺めるのだった。
ふらりと伸子の室へはいって来た素子を見て、
「ひるねしていたんじゃなかったの」
寝台のまんなかに仰向けに臥て、頭の下に両手をかっている伸子がきいた。
「ぶこは? ねたのかい?」
「ねたというほどはねないわ。――でも、暑いわねえ」
「七階だからさ。屋根からやきつけてくるんだもの。涼しかろうはずはないさ」
伸子は、五月二十日ごろ神戸を出た欧州航路の船はいまごろ、どの辺を通過しているだろうと考えていたのだった。地中海に、はいっているだろうか。それともその手前のスエズ辺だろうか。母の多計代は日本服で旅行に出て来ているから、帯がどんなに厄介で、暑いだろう。夏になると毎年東京をはなれて暮していた多計代のことを思い出し、いくら乾燥していてしのぎよいと云っても夏のヨーロッパへ出かけて来たことについて、伸子は、はじめてまじめな心配を感じもするのだった。
「わたし、うちの連中のことを考えていたの。――やがてもうそろそろよ」
伸子は、寝台の上におきあがって、坐って、小さな苦笑を唇の上に浮べながら素子に云った。
「えらいさわぎになるでしょうが、どうかあしからずね」
ちらりと眼をそらすようにして素子が、
「そう云えば、本当に来ているんだろうね?」
と云った。
「一向音沙汰がないけれども――」
「大丈夫でしょう、ここの大使館の増永修三ってひとが、連絡してくれることになっているから。着いてからのホテルのことや何かも、父は直接そちらにたのんでいるし」
「増永って――増永謹の息子ででもあるのかい?」
佐々泰造の同時代人で、増永謹は有名な銀行家だった。
「そうよ。こっちへはもう三四年いるんじゃないかしら。大した秀才なんですって……」
素子がまたふらりと自分の室へもどって行って、まだ下手なタイプライターの音をさせはじめたとき、廊下をこっちへ近づいて来る男の靴音がした。どこかのドアのところで止るだろうと思ってきいていた靴音は、そのまま隣りも通りすぎようとしているので、伸子は、いそいで寝台からおりて、自分の室の開け放されているドアをしめようとした。そこであやうく、鉢合わせしそうに顔を合わせたのは、磯崎恭介だった。
「あら! あなただったの!」
その声で、向いの室から素子も顔を出した。
「めずらしいじゃありませんか」
磯崎がガリックへ伸子たちを訪問に来たのははじめてなのだった。
「一人ですか? ま、入っ
前へ
次へ
全437ページ中433ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング