ゥぎり、旅程は順調にマルセーユに向って進められているものと伸子は信じていた。
六月も末になるとパリにも夏らしい暑さがはじまった。メーデーがすぎると急に乾きあがって昼間は埃っぽくなるモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の夏とちがって、パリの空気は乾いて燃えはじめても、埃っぽさは少なかった。ガリック・ホテルの伸子の室は、午後になるとこれまでよりずっとひろく深く西からの日に照りつけられて、夜更けまで露台へのドアをあけておくようになった。建物の内庭に面した素子の室では西日はささないかわり、朝早くその内庭へ来るボロ買い男の調子のいいよび声や、内庭で自働オルガンをならしながら、窓々から小銭のなげられるのを待っている物乞いの唄、ラジオだかレコードだか小刻みなフランス風のダンス曲など、さまざまの響が窓からはい上って来た。二人はガリック・ホテルの三階から、七階のてっぺんの部屋に移ったのだった。
長逗留の準備のために、七階へうつった伸子と素子とは、屋根裏部屋へ引越したかわりに、めいめい一つずつの室をもった。露台から遠くエッフェル塔が見えて、眺望のひらけた室であるかわりに伸子は西に面した室を。廊下をへだてた素子の室は、東側のかわり、内庭を見おろして、いくらかやかましかった。内庭に面した室の天井はあたりまえの高さだったが、伸子の室では、寝台のおかれている側と反対の一隅で斜かいに屋根の勾配が見えていた。藍と黄のマチスごのみの壁紙ではってあるその勾配の下に、三階の室にあったものより粗末な化粧台が、三面鏡のかわりに単純な一面の鏡をもって置かれている。一人室のここでも寝台はやっぱりかさばって室の大きな部分を占めているのであったが、屋根裏の勾配や簡単な化粧台はその室の気分を、伸子のおちつきいい程度の学生っぽさにしているのだった。
七階には、ほかの室にも伸子たちのように贅沢につかう金はもっていないがその夏をパリで暮そうとしているアメリカ人の若い女が二組ほどとまっていた。そのうちの一組は伸子たちのように向い合わせた室を別々にもっていた。ホテルじゅうに人気がすくなくなっていて、室にいるものは昼寝でもしたい午後の時刻、廊下のどんづまりに向い合った室をもっている伸子と素子とは、涼しくいるために、互の室のドアをあけはなしていた。そんな時刻には、三つ四つさきに向いあっているアメリカ娘たちの室のドアもあけはなされていて、内庭に面した側の室にいる娘はエリザベスとでもいう名でもあるのだろうか、西側の室の開けはなしたドア越しに、遠慮ない声で、
「ベス! あのひとのところへ電話をかけた?」
と云っているのがきこえて来たりした。あのひと、は男性で云われている。ベスとよばれた女の声が、平板に無味乾燥に、
「ええ《エア》」
と返事している。はなれたところからきいていると、それは、手紙をかくとか、物を縫おうとしているままで返事する声であった。無関心さがその声にあらわれている。あのひとに電話をかけた? という言葉からちょっとかきたてられそうになった伸子の好奇心がさまされた。伸子は部屋着のまま寝台の上にころがっている。揃えてのばしている爪先に力をいれてぐっと体をのばすと、赤坊がはだかにされたときそれをよろこび、膝小僧をひっこめて伸びをする、あんな風な気持よいこきざみなふるえが伸子の全身を走った。七月になろうとするパリの日盛り、空気は暑く灼けている。内庭にきこえている辻音楽師の自働オルガンの響。伸子は少しねむたい。精神も肉体も軟かく開放されてくつろいでいる。
そのとき素子は、クリーム色地に水色とさっぱりした緑色の縞のパジャマ姿で、自分の室の窓から内庭の辻音楽師を見下していた。内庭をかこんだ建物の窓は大部分あいていて、その一つの窓から赤いブラウスを着た女が、いつかの夕方デュトへゆく途中で見たように、大きく窓から半身のり出させて、同じように内庭を見下している。辻音楽師はさっきから、もう三度もくりかえしてワルツだのタンゴだのを鳴らしていたのだった。どうしたのかどこの窓からも小銭を投げるものがない。素子は、自分が小銭をやろうかという気になった。テーブルの上においてあるハンド・バッグに目をやった。が、そのまままた内庭を見下した。年とった乞食音楽師は、古びたソフトをかぶって、ごみっぽいシャツの胸にダラリと赤いネクタイをたらし、忍耐づよく内庭のコンクリートへ目をおとしたまま、一本脚の上に立っているオールゴールのハンドルをまわしているのだった。
素子には、七階の高いところから、井戸の底のように見える内庭に立っている一人の人物に向って、小銭を投げてやる[#「投げてやる」に傍点]、という動作に、不自然があった。猿にでも物をやるように、投げてやる[#「投げてやる」に傍点]。それができにくかった。
去
前へ
次へ
全437ページ中432ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング