サの室の電燈が頭の上から照し、キャン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァスののせられている椅子の影が、はだかの木の床の上に黒く落ちている。そとはすっかり夜だった。そこには人々の生活が営まれているが、須美子の孤独や苦痛にはかかわりない遠くの灯が窓から見えている。
「ごめんなさい。ついわたし、こんなことまでお話してしまって……だから磯崎にしかられるのですわ」
「わたしたちは一向かまいませんがね」
親身な懸念のあらわれた顔つきで素子は、
「こまったこったなあ」
と云いながら、タバコをとり出した。
「わたしたちがさし出る場合でもないし――」
「……それでもこのごろは、わたくしもいくらか心が落付いて参りましたの。わたしまで一緒に絵をやろうとするから、万事が無理なんですもの。――ともかく、今のところは磯崎の勉強を中心にして居りますの、あのひとだけは、どんなことがあっても、しっかり勉強しなければなりませんわ」
磯崎恭介の須美子に対するエゴイズムのように見えた面も、こまかい事情がわかってみると、若い恭介と須美子とが互にたすけあって磯崎の両親の、本人たちの心づかないがんこな偏見とたたかっている一つの姿なのだった。旧い重い親と子のしきたり、その生活や修業のために金を出している親たちが若い夫婦に対するときの眼角のきびしさ。恭介と須美子が若い愛で互を護りあいながら、それに対して奮闘していると云っても、そのいきさつのなかでは、女である須美子の献身が自然の帰結として求められている。須美子はしずかな決心でその現実をうけとっているらしいけれども、六つ年上の伸子は、佃との生活でもがいていたときの自分が、二十五歳という女の年を、どんな心で惜しんだか思い出さずにいられなかった。若くて能力をひそめた美しい一人の日本の女のひとが、日本のなかで暮しているよりもひとしおその矛盾が身をかむパリの環境で、良人と子供のために画架をたたんだまま暮している。伸子にとってそれは、やさしく、美しいものに絶えず犠牲をもとめているおそろしい人生に思えるのだった。
「ああ、わたし何だか苦しくて変な心もちがする」
夜が更けると、そこで夜を明かすものが来そうなベンチがおいてあるデュトの暗い通りを、素子の腕につかまってホテルの方へ帰って来ながら伸子が訴えた。
「須美子さんの、あのいい恰好のおかっぱが肩へめりこんだようになったときの様子や、あの眼を思うと、切なくなって来てしまう。何てこってしょう! ねえ。話をきいているうちに、わたし、幾度もナターシャのこと思い出してよ。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の、あのはたん杏[#「はたん杏」に傍点]の頬っぺたの、みもちのナターシャ。あんなにたのしく赤坊を生もうとしてはりきっていたナターシャ。須美子さんの苦しさと何てちがいでしょう。この世界には、そういうたのしさや新しい美しさがあらわれはじめた、って話したとしたら、須美子さん何と思うかしら。――ねえ、どう思うと思う?」
だまって歩いている素子の返事を求めて、伸子は自分の腕のなかにある素子の腕をゆすぶった。
「わたしは、もうちょっとで唇から出かかったのを、やめたのよ。須美子さんがナターシャの話は、もう、自分の苦しさと関係ないよそのことのような眼をしたら、わたし、いよいよ、須美子さんがせつなくなってしまう。それに、磯崎さんに話すにきまっているでしょう。須美子さんが本気で話したにしても、磯崎さんが、宣伝だろう、なんていうかもしれないと思うと、なお云えなくなっちゃった」
しばらくして、素子は、実際的な口調で、
「いずれにせよ、田舎へやってある子供の病気ってのが、何でもなくすめばいいがね」
と云った。帰りしなに、上の子供をあずけてあるフォンテンブローの田舎の主婦から、手紙で、この二三日すこし子供の調子がわるい、と告げて来ていると云ったのだった。ドアのところで、二人の手を握りながら須美子は、
「こんやは、ほんとにありがとうございました」
と、云った。
「おかげさまで、わたし、元気がでましたわ」
そして、黒いおかっぱと、黒い眼のなかで、ほほえんだ、そのとき、田舎からの手紙のことが簡単にふれられたのだった。
第二章
一
七月一日にマルセーユに着く予定の佐々の一家五人は、少女のつや子までをふくめて五月二十五日ごろ神戸を出帆する郵船の船にのったはずだった。
そのことについては伸子と素子とが四月二十九日にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を立って来る前、東京と打ち合わせたきりであった。カトリ丸の出帆は汽車と同じように日どりを狂わせない。さぞ大騒動であろう佐々の全員の出発も、船の出帆ばかりはのばさせられないという条件から確実にされている感じで、特別な連絡のない
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