キこし歩きに出たくなっちゃった」
「気分は大丈夫?」
「大丈夫さ、もう三日もとじこもっていたんだもの。――磯崎君とこへ行ってみようよ、医者のとき騒がしたんだし」
素子は、パリ案内をバルコンへもちだして、ヴォージラールからデュトの間の、いりくんだ町すじをしらべた。
「こういう風に行くと、近いんだねえ。よし、と! さあ、ぶこちゃん、出かけるよ」
二人は、ヴォージラールの通りをすこし行ったところで右へ曲り、やがてその裏町を左へ折れてつき当りをまた右の横丁へという工合に、ほそい道を縫って歩いて行った。
そのあたりは、ほんとにパリの裏町で、倉庫ばかり続いた、人気ない古いごろた石じきの道だったり、界隈の古さをしのばせて、どういうわけかそこにだけのこっている十七八世紀ごろの厚い漆喰のかけた石壁に蔦がからんで葉をしげらせているところなどがあった。雨あがりのうすら明るい午後九時の裏町に人通りは全く絶えていて、一人はベレーを左へまげてかぶり、一人はベレーを右へ傾けてかぶった伸子と素子とが歩いてゆくゆっくりした靴音ばかりが、あたりに響いた。とある横丁で、強烈な黒灰色にぼけた四角い小家があり、それにかみつくような対照で煉瓦色の壁が突っ立っていた。その風景はブラマンクの絵そっくりだった。古い、狭い歩道にくっついて伸子たちが通りすがってゆく左手に、昔風にふるびた木造の入口が開いていた。その奥に枝をひろげているプラタナスの下を一人の男が両手に水桶をさげて遠ざかってゆくところだった。プラタナスの木蔭にはもう木下闇が迫りかけている時刻だったから、男のゆるやかな白いシャツの背中は、くらい緑の下のジンク・ホワイトのひとはけのような印象だった。
どの通りも横丁も、人気なかった。歪んで、表情のある二階建の家なみがあった。その壁と壁との間に三尺ばかりのすき間が見えて、奥が内庭らしく、洗濯物が下り、そのわきに猫のような小娘がお下髪《さげ》を垂してむこう向きに立っていた。それは、もうじきデュトの通りへ出る横丁での景色で、少しゆくと、急にやすもののラジオのラウド・スピーカアがソプラノの歌を送り出して来た。ラジオの流れだす低い二階の窓を見上げたら、灯《あかり》をつけない窓から半身のり出させて、若い男と女とが通りを見ていた。その通りの上で動いているものはと云えば、伸子と素子二人づれの通行人だけだった。六月のパリの夕暮は長かった。そのしずかで長い夕暮れいっぱい、人々は次第に濃くなる夜につつまれながらうすらあかりのなかにいるのだった。
デュトの通りへ出ると、街上の気分はずっと陽気で小さい雑貨店だの食料品店がならんでいる。町角で、二三人のおかみさんが立ち話をしたりしている。
伸子たちは、いつもその入口は明けっぱなしでドアがあるのかないのかわからないようで戸口番《コンセルジュ》もいないデュト通五八番地の木の階段を、ことことと音をたてて登って行った。入口に電燈はなく、厚く古い壁に沿った階段はもう足もとが暗かった。二階のつき当りのドアが磯崎恭介夫妻の室の入口だった。ノックすると、奥の部屋から靴音がして、
「どなたですか《キ・エ・ヴー》?」
須美子の声がした。しっとりと、端正な発音だった。
「わたしですよ」
すぐドアが開かれた。
「まあ、もうおよろしいんですの?」
それは素子の歯痛のことだった。
「よく、おいで下さいましたこと」
「ちょっと――かまいませんか。おさわがせしたからお礼かたがた散歩に出て来たんです」
「どうぞ。――丁度かづ子も眠ったところでようございましたわ」
須美子は、装飾らしいもののまるでないその室の椅子にかけた素子の頬を見ながら、
「もうはれていらっしゃいませんのね」
と、ほほえんだ。
「こちらでは、日曜に何かおこると、ほんとに困りますわねえ」
はじめての子を、須美子は日曜日に生んだのだそうだった。
「でも、お産の方がよろしいわ。日曜日でもお産だけは格別で、かえってみなさん親切にたすけて下さいますから……」
無装飾な鈍い壁の色をむきだしたその室のなかで、大きい静かな眼の上まで前髪のきり下げてあるおかっぱと、東洋風に小さいたてカラーのついた黒い服をすらりとつけている須美子の姿は、独特に美しく、また、いつみても伸子の心に伝わるある淋しみがあるのだった。
「磯崎君は?」
素子がきいた。
「今晩はお友達の会だって、出かけて居ります。めずらしいことですわ」
「あなた、行かないんですか」
「――子供がおりますから……」
そう云ったあとで、須美子は、ちょっと顔をうつむけた。彼女のうなじを、黄昏《たそがれ》の光がかすめた。カーテンのない窓が、こみあったデュトの通の内庭に面してあいている。
「ここのマダムにおたのみになれないの?」
良人の留守、ひとりでいなければな
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