ナ出て行きませんからね。たいていパリの東部の労働者地区だけでやるから」
「――それじゃ効果がないじゃありませんか」
 素子も意外らしかった。
「できるだけ賑やかなところはねりまわないデモなんて――妙なんだな、パリ式って――」
「なにしろ、フランスでは毎年歳入の幾割かが外国人のおとしてゆく金なんです。ことしなんかは、イタリーとスペインが観光客あらそいにのり出して来て、フランス政府は外国人の買い上げる贅沢品に特別関税をかけようとしているなんてうその宣伝したもんだから、――あなたがたの来られるちょっと前ごろでしたがね。政府はうちけしに大童でしたよ。パリで金をつかう連中は、みんな自分の国の失業や自分の会社のストライキなんか忘れるために来ているんですからね。パリでみたがっているのは、デモじゃ無いでしょうよ」
「なるほどねえ」
 吸いくちに噛みあとのつくまで駒沢の家でつかっていて、それをモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でつかってパリまでもって来た赤いすきとおる短いパイプをしまって、素子は、新しく買ったばかりの黒くて長い、ほそく金と銀の線飾りのついた婦人用のシガレット・ホルダーでタバコをふかしている。
「賃銀値上げのかけ合いのようなことは、お客の前へもち出すまでもないというわけか」
「でも、みんな真剣な顔つきでしたわ」
 須美子が、どこかで見た真剣な男女の顔に感じた自分としての同感をあらわした。
「そりゃ、真剣だよ。僕はただ、いまのところ東部《ル・エスト》が中心だというだけだよ――いざとなれば、シャンゼリゼーへだってどこへだって出かけるだろうさ」
「そりゃそうでしょう。パリのペーヴメントはあのひとたちのもんだもの」
 伸子はそう云ったがその話とは別に、若い恭介と須美子のやりとりのなかに、ぼんやりと流れる生活感情の擦れあいを感じとって伸子は、しばらくだまった。
「ほんとのパリがわかるのは、むずかしいことなのねえ」
 伸子は、パリへ来てから、ちょいちょい心を掠める一つの疑問をもちはじめていた。フランスの貨幣には小さな十サンティームの銭にまで、自由《リベルテ》、平等《エガリテ》、博愛《フラタニティ》という三つの人類的な標語が鋳出されていた。フランスの人々は大革命このかたこの標語をかかげている。この重大で力のこもった三つの標語も一九二九年のパリの人々の生活のなかではいつの間にか本源的な発酵力をぬかれて、みんながそれを知っていてそれを誇りにしている一つのフランス的なものとして様式化されてしまっているのではなかろうか、とさえ思われることがあった。自由《リベルテ》・平等《エガリテ》・博愛《フラタニティ》と三つの偉大な文字の鋳出されているサンティームの小銭には、何とすりへらされたのが多かったろう。ときどき伸子は、自分のひとさし指の腹ぐらいの小さいサンティームの銅貨の半円がまるで砥石ですったようにひどくすり減らされてそっち側のふちだけが薄く薄くなっているようなのを受取った。また全体が平らに磨滅して、鋳出されている自由も平等も博愛もとうに消えうせてしまって、小さい火傷のひきつれのような銅色に光っているのをもったこともある。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、赤いロシア皮の財布に入れて伸子がつかっていた貨幣にも、標語が鋳出されていた。ロシアらしく厚手で大きい銅貨にも銀貨にも「万国の労働者、団結せよ」と鋳てあった。これは野暮だが、理論と実行の方向の示された言葉だった。その字が鋳出されている銅貨は、まだソヴェトの十年では新しかった。たとえそれがどんな形にすりへらされたにしても、そこに鋳出されている字は、その磨滅への絶えざる抗議を組織するようだった。自由・平等・博愛という言葉の響きは、愛ということばのように伝統の力でいきなり人々の情感にふれるからパリのすりへった小銭はそれを見るものにまざまざと厖大なパリに営まれている生活の、こまかい辛酸を生々しく感じさせるのだった。
「パリの人たちは、よっぽど皮肉な感情で、お金のああいう字を見ているのかしら」
 自由・平等・博愛という字のことにふれながら、伸子が云った。磯崎恭介は、
「さあ――」
と、格別そんな話題に興味をひかれる様子はなかった。
「どんな字をかいてあったって、十フランで買えるものが減って来るのにかわりはない、と思っているさ。パリの人たちは夢想家じゃありませんからね。そうでしょう? 須美子さん」
 素子に問いかけられた須美子は、まんじゅう頭のおかっぱの前髪の下に、黒くてきれの大きい眼を真面目に見ひらいて黙っている。パリへ来てから伸子のこころに印象されるものは、素子の解釈ではつくしきれないのだった。

        三

 ある日の午後三時ごろ、伸子と素子とはグラン・ブル※[#濁点付き片仮名
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