フ歌がある。
 伸子は、きつく両手を握りあわせながら、自分のデスクの前に立ちつくした。伸子は、帰る。けれども、その言葉を声に出していうことはおそろしかった。
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    資料

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    第一章


        一

 いま、伸子はパリの街を歩いている。
 素子と。素子のわきには、白い服を着せられたひよわそうな女の児の赤坊を腕の上に抱いて歩いている若い画家とその妻とがひとかたまりになって。
 左手に高く停車場の円屋根が見えるモンパルナス通のプラタナスに六月の日光が降りそそいでいる。街上には色彩と動きと音響とが溢れている。柔かい新緑の並木と歩道との間に赤と白との縞や、黄と藍縞の日よけが張り出されている。地下鉄《メトロ》の入口には、桃色だの黄色だの白だののもういらない切符が紙屑となってすてられていて、大きく白黒に抜かれた字と派手な図案の広告がいっぱい貼りめぐらされた広告塔そっくりの共同便所の下から流れ出した穢水が陽気なさわがしい街の一隅にかすかなアンモニアのにおいをただよわせた。
 パリのこの一角で、生活は率直な活気と気分をもって溢れている。車道へ大きい枝をのばしたプラタナスの下の共同便所へ、ひっきりなしに出入りする者があり――それは男たちばかりだった――メトロからあがって来た人々は、いらなくなった桃色や白の切符を無頓着にその辺へすてて、さっさとそれぞれの方向に散っている。午後一時すぎから二時すぎにかけて昼飯時刻のモンパルナス通の喧騒は、並木の新緑やその下へ色とりどりに張り出された日除けなどでやわらげられている。パリでタクシーはたった一つの合同会社に独占されていた。どのタクシーも、その車がタクシーだということの証拠として重苦しい濃い葡萄酒色に塗られている。これは賢い方法だった。こんなに自動車のどっさりはしっているパリの街で、すべてのタクシーがすぐ見わけのつく一色に塗られているということは、自家用をもっているものの満足をそれと気づかせずにくすぐることであったし、同時に、昼も夜も大並木道《グラン・ブル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》をぞろぞろ歩いているアメリカ人たちに、「パリでの」自家用車を買わせるきっかけをつくっている。行き交う自動車の流れをよけて、伸子たちが歩いている歩道とすれすれのプラタナスの下を、一台の自転車が動いていた。その自転車の横には短い脚立がしっかりとくくりつけてある。ハンドルのところから、いくつもペンキ壺がぶら下っている。労働用のベレーをかぶって、ブルーズを着た三十がらみの男は、歩道にくっついて鼻唄まじりにゆっくりペダルをふんでいたが、ちらりと伸子たちの日本語を小耳にはさんで顔をこっちへふり向けた。その顔の上に並木ごしの日光がおどる。
 歩きながら、伸子の視線は折々、つれの若い画家の腕にだかれている子供にひかれた。昼飯どきの六月の歩道にあふれる人波の間で、マズレールが彼の白と黒との版画の中で、鋭く刺すようにきり出して見せている黒い山高帽の連中の、ずんぐりした黒服の肩と、強情で貪慾に重い眼ざしの林の間で、まだ若い父親の腕の上でじっとしている小さな子の白服の軽やかさは、思いがけない樹の幹にまだ羽根のしめっぽい稚い白い蝶々がとまっているのを見つけだしたときのような感情を伸子に抱かせるのだった。シャツの上から古びた緑色と茶色の縞ビロードのチョッキを着て、白い大前掛をかけた小僧が、人ごみの間をすりぬけながらすべるような歩きつきでわざと伸子に向ってまっすぐにやって来た。一歩のところで、小僧は巧みに両脚をくねらせて上目使いに伸子を見、身をかわし、通りすぎ、三歩ほどうしろで口笛を鳴した。
 このモンパルナスをさかのぼって伸子たちは歩いて行っているのだった。人波が段々遠ざかった。広い歩道の灰色と新緑の調和が街すじの上に遠く見とおせるところへ出て来た。その辺で黒い山高帽はごくまばらになった。ショウ・ウィンドウを見ると、その内部の壺にミモサの花がふっさりと活けてあって、そこは額ぶちや絵具を売っていた。店さきに親しみぶかく新聞や雑誌をつるして、小さい書籍店もある。ステーションのまわりのモンパルナスが中どころ以下の取引の金銭でほこりっぽくされているとすれば、この辺は絵描きや文学者のモンパルナスだった。パリの黒い山高帽に象徴されている小市民のすべてのみみっちさ[#「みみっちさ」に傍点]と常識と金銭についての野心を軽蔑して生きようとしている人々のモンパルナスだった。
 右側に大きいキャフェ・ラ・ロトンドがある。そのすこし先にやっぱり大きいキャフェ・ドームが歩道いっぱい日除けをつき出している。どちらもモンパルナスに集る芸術家や芸術愛好者たちの中心なのだそうだ。しかし、どういうわけか、この一二
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