N、ドームよりもラ・ロトンドの方がはやっていて、パリの有名な芸術家やパリへ来た世界の有名な芸術家たちの姿をよそながらにも見たければ、ラ・ロトンドへ行けと云われているということだった。いかにも定連らしい男たちがくつろいだ様子でパイプをふかしていて、青い玉飾を頸にまきつけたおかっぱの女が朱塗りの柄の長い婦人用パイプでタバコをくゆらしたりしている。小さい子供づれの家族的な伸子たち一行は、そのラ・ロトンドのテラスにかけて往来を見ながらコーヒーをのんだ。昼飯は、きょうもメトロのわきのブルガリア人の小料理店|RIJO《リジョ》ですました。黒いさっぱりした鼻髭をもっている|RIJO《リジョ》の主人は、あんまり金のなさそうな、そして、大したひき[#「ひき」に傍点]もなさそうなパリの外国人は、とくに彼らが女づれの場合、羽根ののびきらない雛のようなもので、一度そこに満足すればあんまり遠くとびまわらないということを知りぬいているらしかった。彼は伸子たちの注文はいつも自分できいた。きょうは、うまい小海老をたべさせた。フラスコ型のガラス瓶に入れて来るおきまりのうすい赤い葡萄酒のかわりに、コップに一杯ずつの白葡萄酒を四人にすすめながら、
「|いい味ですよ《セ・ボン》。|素晴らしいです《トレ・ビアン》!」
何で伸子がそれを知っているのか自分でもわからないながらよく知っている一つの身ぶり――セ・ボン、と云いながら、さもかわゆいもののことをいうように三つの指さきでつまむような形をこしらえ、ちょいと肩と首をすくめる身ぶり――を添えて。
伸子と素子がとまっているホテルは、モンパルナス停車場の円屋根を望むところにあった。誰も、それがどんな人だったか知りもしないエドワード六世ホテルという名だった。
ベルリンから来た列車が、ほこりで醜くなった暗緑色の車体を北停車場《ガール・デ・ノール》の巨大なガラス天井の下でプラットフォームに横づけにしたとき、伸子は最後の車体のショックを体にうけながら胸にこみあげて来る漠然とした苦しさを感じた。パリの大さ。見知らない大都会の生活のつかみどころない複雑さ。北停車場《ガール・デ・ノール》の雰囲気が伸子をうった。ウィーンのようでなく、またベルリンのようでもなく、パリでは生活しよう[#「生活しよう」に傍点]と思いこんで来た伸子は、それだけに、行く先も知らないで北停車場《ガール・デ・ノール》のプラットフォームへおりる自分たちを、たよりなく感じたのだった。伸子たちはわざといそがず、一番あとから出口に向って歩いて行った。めいめいが、荷物の全部であるスーツ・ケースを一つずつ下げて。――
若い画家の磯崎恭介と妻の須美子とが、白い服を着せた子供を抱いて伸子たちを迎えに来ていた。その若い家族の光景は、伸子につよい感銘を与えた。小さい子供の白い柔かな服のふくらがりが、北停車場《ガール・デ・ノール》の煤煙のしみこんだ黒くて太い鉄柵のところで異様に真白く、花弁のように見えたばかりではなかった。小さい子供がほとんど若すぎるようにさえ見える父親の腕にだかれてステーションの出迎えに来ていることは、パリでの磯崎恭介夫妻の暮しぶりをそのままに語ることだった。同時に磯崎夫妻をそのように生活させているパリそのものの生活断面でもある。伸子は、何の躊躇の感情もなく、まだ三十にもなっていない、夫婦で絵の勉強をしている磯崎恭介夫妻のつましいみちびきによって自分たちの前にひらかれた厖大なパリの生活のわれめへふみこんだ。
磯崎夫妻がパリの倹約な生活の四年間でどこよりも知っているのはモンパルナスであり、そこに彼らの生活の熱情がかくされていた。でも、彼らは伸子たちのためにふさわしいと思えるホテルがどこにあるかしらなかった。果してどういうホテルなら、伸子や素子に適当なのか、それもわかっていなかった。素子は、少女のころから須美子を知っていた。須美子は、素子がある大学のロシア文学科にいたころの教授登坂の娘であったから。しかし、伸子は初対面だった。若くて正直な人々は、パリへ着く伸子たちのために、ともかくできるだけ少く金をつかわせるようにと思ったのだった。
伸子、素子、磯崎夫妻の一行四人は、白い服の小さい女の児を蕊《しべ》のようにかこんでモンパルナス通までタクシーで来て、エドワード六世ホテルの部屋へはいって行った。表の入口はモンパルナスの通に向っているが、ホテルの部屋部屋は、その大きい石造建物の一部分を縦に狭く区切ってわり当てられているらしく、伸子たちがのぼってゆく階段は暗かった。三階のその一室には、コバルトと黄色のほそい縞の壁紙がはられていて、どこやら古びた紙ばりの箱のなか、という感じだった。一方の窓から西日がきつくさしこんだ。
部屋のまんなかに立ってぐるりを見まわしながら、須美子がお
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