オつけられながら、伸子に対して懲罰的な、つきはなした態度をかえないのだった。
伸子は、一日のうち、一定の時間だけ、翻訳の仕事をすると、あとは多く外出しているようになった。素子のかわりに、雑誌の予約をするというような用事のあることもあった。全然用事のないこともある。それでも、伸子はやっぱり外出した。本棚で仕切られた部屋の、一つ一つの窓に向って、伸子は素子の身じろぎに気をくばり、素子は伸子の、揺れて不決定な考えの方向の変化に絶えず神経を働かせていることは、どちらにとってもたえにくかった。
伸子は、もとから出入りの賑やかな性分だった。子供らしい几帳面さで、ただいま、行ってまいります、ホテルのドアが玄関でもあるように快活に声をかけた。けれども、いま伸子は、心の奥に気をとられている人間の、うっかりした物静かさでドアを出入りした。自分でどこへ行くのかわからないような顔つきで、ゆっくりベレーをかぶり、机の上から赤いロシア皮の小銭入れをポケットへ入れただけで水色ブルーズ姿のまま、だまって出て幾時間も帰らなかった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]。愛するモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]。だが、わたしにわからない。伸子は、メーデーにいたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸の公園へ行った。河に向った公園のリラの花房は、三分どおり開きはじめて白や紫紅色の豊かな花房のまわりに熊蜂がとんでいた。
パン販売店の列に立ち、石油販売店の列にならび、焼きたてのパンの芳しいにおいにつつまれながら、あるいは石油のツンと鼻をさすにおいをかぎながら、伸子は、ときどき、目をさまして訊くような眼で、自分のまわりにいる買物籠を腕にかけた女たちの群を見た。ソヴェトの社会。それをきょうまでつくり上げて来たのは、伸子ではない。伸子はそれを確認しないわけには行かなかった。どんなに心をひきつけられるにしろ、それがきょういるために伸子はどんな辛苦もなめなかった。伸子が、ここまで出来あがって来た今のソヴェト生活を、ほめるのは何とたやすいことだろう。革命の仕事をして来たことのない伸子の賞讚がどんなに真心からのものであったにしろ、そのために飢え、そのために土曜労働をし、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]・ソヴェトの第一回集会にあつまった人々は、伸子の賞讚によって賞讚されつくせない自分たちの歴史を生きて来ている。そしていまもそのつづきを生きつつあるのだった。こういう人々に向って、報告から日本の小説をかいて、十万部も印刷されるかもしれないモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での自分。その考えには、伸子を生理的に嫌悪させる卑俗と空虚がある。伸子としては、ほとんど欺瞞と感じられるものがあった。
伸子は、考えの重さのために、われ知らず足音をしのばすような歩きつきで、ホテル・パッサージの階段をのぼり、ノックするのを忘れてそっと自分たちの部屋をあけた。
素子が、びくっとして、デスクからふり向いた。
「どうした、ぶこ!」
「どうしもしない」
幾日ぶりかで、素子が素子らしい顔と声とで伸子のそばへよって来た。
「ほんとに、どうもしないか?」
伸子は、合点した。
「ぶこ、バスなんかに轢《ひ》かれなや」
伸子はまた合点した。口をきいたら声がふるえて泣きそうだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に、そろそろ白夜がはじまった。自分のするべきことは何だろう。思いつめて、伸子は、自分は日本へ帰るべきだ、と考えるようになった。素子とつれだって伸子がそこから出て来た日本ではなく、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の三年で、伸子に新しい意味をもって見られるようになって来た、その日本へ。それは佐々のうちのものの知らない日本であった。百万人の失業者があり、権力に抵抗して根気づよくたたかっている人々の集団のある日本へ、伸子は全くの新参として帰ろうと決心した。そこで伸子の生活はどんな関係の中におかれるか、それは伸子に何にもわからない。けれども、伸子が、三年の間に何かの成長をとげたことが確実ならば、伸子にとって、これまで知らなかった日本を生きて見ようと願う思いがあるのは真実だった。日本へ帰ることにした、という返事は、山上元をよろこばせないであろう。軽蔑される返事かもしれない。だけれども、伸子は、ほかにどんな答えも見出せなかった。伸子は、そこをはなれる可能を示されたとき、ひとしお深く日本の苦悩に愛着したのだった。もしかしたら自分の挫折があるかもしれないところ。もしかしたら自分がほろぼされてしまうかもしれないところ。しかし、そこに伸子の生活の現実がある。そして、伸子が心を傾けて歌おうと欲する生活
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