閧ノコップをもって運んで来る、ずんぐりした山上元の様子を、うれしそうに眺めていた。来るたんびに、御自慢のジャムを御馳走になり、それを自分も面白がってよろこんでいる。伸子は、きっと自分ではいま子供っぽい顔つきになっていることだろうと思った。
「あら、これは何かしら、めずらしいこと」
 お茶のコップの次に運び出されたのは、桜んぼぐらいの大きさで、リンゴのような皮の果物のジャムだった。
「リンゴの一種だね」
 山上は、そう云ったきり、ロシア流にひとさし指と中指との間にサジをはさみこんで、コップの茶をのんだ。
 伸子が、丁寧にジャムをたべてしまうと、山上は、しばらく、伸子の前のガラス小皿の上にのこった幾粒かの果物の種を見ていたが、いきなり、
「どうだね、君は、こっちへのこる気はないの」
と云った。
 ――伸子は、顔をあげて山上の眼を見た。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ?」
「ああ」
 自分がかけている椅子ごと、部屋じゅうがぐるりと一つまわったような感じだった。
「のこるって――」
「日本へ帰らないで、こっちにずっといてしまうのさ。こっちで仕事をするんだ」
 伸子は、山上のいうことが、どうかしてひどくわかりにくかった――言葉そのものではなく、そういう考えかたそのものが――
「仕事って何ができるのかしら」
 政治的な活動をする女になるということを、考えたことがなかった。だけれども、伸子が日本人で、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へのこり、日本へ帰らなくなるとすれば、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でその立場は、政治的である以外にありようないわけであった。伸子がこれまで、トゥウェルスカヤの通りや並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》ですれちがったとき、こっちから行く伸子を目に入れるとにわかに日本人だか中国の人だか区別のつかない表情をよそおって通りすぎて行った日本人らしい人たち。その仲間にはいること以外に、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にとどまっての生活は考えられない。
 伸子は、亢奮して来た。自分がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にとどまってもいい者として判断されているということ。伸子の心臓はこの申出によって、口からとび出しそうにはげしく波うった。思ってもいないことだった。自分がそのようにみられていた、ということは。――でも、
「わたしに出来ることがあるのかしら」
 心配そうに、伸子はいくらか声をおとした。伸子のような者がその仕くみのなかに参加するにしては、山上元という名につながるすべての機構が、あんまり巨大であり、権威にみたされている。
「いくらだってすることはあるさ」
 山上元は、ふたたびテーブルの下へ、ずっと両脚をのばした姿勢で、こんどは真正面から、動顛した伸子の、上気して、ほてっている顔を見つめた。
「何も心配することは、ありゃしない。こっちにいて、いくらでも日本の小説を書けばいいんだ。外国の作家でも、こっちにいて小説をかいているのは珍しくも何ともないよ」
 ベラ・イレッシュは亡命してモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に来ているハンガリーの小説家だった。彼の写真と作品が小説新聞《ロマン・ガゼータ》の特輯として発行されているのを伸子も買った。イレッシュは亡命して[#「亡命して」に傍点]来ている小説家だった。イレッシュは小説だけを書いていた人ではなかった。故国のハンガリーで革命のために活動して、その結果、その収穫をもって、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た。自分は、日本でどういう風に生活していただろう。
 伸子は、山上元が、何かの思いちがいをしているならばわるいと思った。彼が、伸子について何かを知っているとすれば、それがむしろ不思議だと云えるくらいだった。伸子は日本のプロレタリア文学運動にさえ無関係だったのだから。
「本国で、何かちゃんと活動して来たのなら、こっちで、小説をかいても役に立つかもしれないけれども――御存知だと思うんですが、わたしは、そうじゃないんです」
「そりゃよくわかっているさ。しかし、きみぐらいの技術と経験があれば、何もここにいたからって、日本の小説が書けないと、きまったものでもないだろう。僕を見なさい。僕は、もう二十年日本をはなれているよ。しかし、日本の現実について、ちゃんとわかることができるし、情勢の判断も出来ている。――」
「そりゃ、報告をもっていらっしゃるから」
 伸子は思わず高い声を出した。
「もちろん、そうさ。報告によって書くんだが、小説だって大してちがいはしない」
 はげしい動揺と混乱の間で、山上元のこの言葉は、伸子に自分というものが、立つ、小さな場所を与えた。山上には、文学の作品がどん
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