汲フ室での気分は、何と苦しかったろう。外へ出ると、こんなに気持がはればれする。そのことが伸子を悲しくするのだった。
 ゆっくりと、しかし確実な目的をもっている者の歩きつきで、伸子はトゥウェルスカヤのゆるやかな傾斜を、上《かみ》へのぼって行った。そして、リュックスの表ドアをはいった。受付の男は、はじめて伸子が来たときにいた男だった。彼は、事務的に伸子の旅券をあずかった。
 二階の廊下に、きょうもかすかにシチのにおいが漂っている。けれども、アルミニュームの鍋をもって通りがかる女のひとに出会わず、伸子は、もう一つ曲ったところにあるうす暗い廊下で山上元のドアをたたいた。
 きょうはタイプライターが片づけられている。出窓のところに干されている婦人靴下もなかった。出窓は、そろそろ六月になろうとする季節に向って二重ガラスの内側があくようになって、この前そこいらにあったごたついた品は、さっぱり整理されている。
 山上元は、伸子を見るとすぐ、
「けさ、川瀬がよったろう?」
ときいた。
「よって下さいました。それで上ったんですけれど……」
「うん。――まあ、そこへかけなさい」
 山上元は、伸子と向いあってかけ、ズボンのポケットへ両手をいれて、テーブルの下へずっと両脚をのばした。初夏めいた明るい光線で、山上元の下瞼についているふくろが、伸子にはっきり見えた。
 社交的な無駄ばなしに馴れていない人の、ぶっきら棒な調子で、
「『戦旗』で、きみの書いたものをほしがっているそうだよ」
と云った。
「書けたら送ってやるといいね」
「わたしの書くものでも役に立つならば送ります」
「役に立つどころか、必要だよ。出来るだけルポルタージュでも何でもかいてやんなさい」
 伸子は、ふとユーモラスな気になった。山上元の「自伝」の中に、クリスチャンだった青年時代の彼が、小説はみだりがましいものだと感じたという一節があったのを思い出したのだ。そして下宿先の主婦に、文学のねうちというものを説明されたが、どうも納得しかねた、という感想が書かれていた。それからのち、革命家として変転の多い生涯を送りつづけて、七十歳になった山上元が、果して日本のどんな小説をよんでいることだろう。伸子がソヴェト同盟へ来るまでにかいていた小説を、山上がよんでいないことだけは、最も確実だと思えた。それなのに、どこから彼は伸子に「戦旗」にかけとすすめるのだろう。「戦旗」にのっているベルリン通信のような、階級的な角度のつよい文章が自分にかけるとも伸子に思えないのだった。伸子は笑いながら、
「わたしの書いたものなんか、これまでおよみになったことないでしょう」
と云った。
「書かせてみたら、こんなもの、じゃ、わるいと思います」
「いや読んだよ」
 小さいけれども角ばっていて強情そうな年よりの顎をつき出すようにして、山上は、例の三白眼で伸子を見た。
「何だっけ、――こっちへ来てから、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のことを書いているのを、何かで読んだよ」
「――『文明』に出ていたんでしょうか」
「そうだ、そうだ。――結構おもしろかったよ」
 伸子は、体がぽっとあつくなった。山上がよんだというモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]印象記は、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来て最初に書いたものだった。あのころから二年以上たって、しかも現在のソヴェト生活にくらべると、伸子の印象記は、ロシアの民族性という興味にひっかかりすぎていた。そして、伸子が現在理解しているよりも一層未熟にしか、階級の問題をとらえていなかった。
 しかし、山上は、その印象記については、それをよんだ、という事実以外に、こまかいことは記憶していない風だった。おおまかに、
「あんなのだって、送ってやればいい」
と云った。
「太陽のない街」が、ドイツ語からロシア語に翻訳されるということだった。「一九二八年三月十五日」も近々ロシア語になるということだった。
「いまに、日本のプロレタリア文学の作品はどしどし翻訳されるようになるよ、東洋語学校の日本語科の卒業生が急速にふえているからね」
 山上元は、しばらく言葉をきって、伸子の存在をもこめて前方の壁を見ていたが、
「どれ、またジャムを御馳走しようか。この間のは、うまかったろう?」
 椅子を立って、ベッドの裾のついたての蔭にはいった。そして、間もなく、全くこの前のとおりの、無骨なくせに、何でもできる手つきで両手に茶のコップをもって現れた。とりつくろわないそのかっこう[#「かっこう」に傍点]に伸子はつよい親愛感をもった。若い女が、ふとしたときに老人に対して抱く暖かい好感が伸子の胸をみたした。伸子は、その室の隅にとりつけられている二人がけの小長椅子にかけたまま、この前のように遠慮せず、両
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