ヘ、そこへ行くわけか」
とひとりごとを云いながら、伸子の手もとを眺めていた川瀬は、ふと、あたりまえの話し声で、
「おやじさんが、是非また会いたいそうだぜ」
と云った。
伸子は、顔をあげて川瀬をみ、ひどく当惑した表情をした。メーデーの前に山上元のところへ訪ねて行ったことは、素子に話してなかったのだった。困った伸子の顔つきを見て、川瀬は、
「そうだったのか、失敬した」
しかしそのまま、やはりあたり前の声でつづけた。
「きょうの三時に来てくれっていうことだ」
「ふーん」
素子が、不快そうな口元の表情で、タバコの煙をはいた。
「そういうことだったのか」
「失敬した。僕は、どっちも知っていることなのかと思ったもんだから」
「わたしは何にも知らないよ。しかし君の関係したことじゃない」
この場は気をとり直そうとする声の調子で、
「まあいいさ。――どっちみち、わたしの用じゃないんだから。――こっちの方をきめようじゃありませんか」
結局、川瀬はルバーシカを伸子たちからの祝いとしてうけとった。
「貰い立ちしてもいいかい?」
立つ前に、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でまだすましておかなければならない用事があるからと、川瀬は、それから三十分もいないで、伸子たちの室を去って行った。
伸子は、二人きりになって、ますます困惑した。だまったまま、テーブルの上にひろげられている刺繍を片づけはじめた。ゆっくり動いている伸子の上に、素子の視線が釘づけになっている、それを伸子は重苦しい疼痛の斑点のように、自分の肉体に感じた。
とりちらされたテーブルの上が殆んど片づいたとき、素子が伸子にきいた。
「ぶこ[#「ぶこ」に傍点]、行くんだろう」
きょう三時に来るようにという山上元のことづてをまもって、行くのだろう、という意味だった。
「行こうと思う」
素子の不快そうな、こわい顔におじけづかないように、自分をはげましつつ、伸子は、テーブルのわきに立って、返事した。
「話をしなくて、ごめんなさい」
――しかし、この間、ひとりで山上元に会いに行ってしまったことが、ほんとうの意味で素子にあやまらなくてはならないことなのかどうか、伸子にはっきりしなかった。伸子が、山上元に会って見ようと思いはじめ、それをひとりで実行した、その心もちの過程には、何か伸子だけのひそかな動機――伸子自身にさえ明瞭になっていない動機が熟していたのだった。マヤコフスキーの自殺や、第二芸術座の「チュダーク(変り者)」や、その刺戟のほかに、素子の日々の生活の感情そのものの中に、伸子を素子にはだまって山上元のところへ行かせるものがあるのだった。
「ぶこ[#「ぶこ」に傍点]が行くのは自由さ。わたしにだまって行ったのも、自由だろうさ。だけれど、もし……」
素子の声が震えて途切れた。素子の眼に涙がいっぱいになった。
「もし、わたしも、行きたかったんだとしたら、ぶこ、どうしてくれる」
そういうことがあろうと感じられていなかったからこそ、伸子は素子にだまって、リュックスへ出かける気持になったのだった。伸子は、赧くなって、涙を目にためた。
「ごめんなさい」
心からあやまった。
「わたしには、そう思えなかったもんだから……」
やっと、一つの道を見つけて、伸子は素子に云った。
「あなたも行っていい心持なら丁度いいわ。きょう、いっしょに行きましょうよ。この前だって、何にも用という用はなかったんですもの、いっしょに行って見ましょう」
「そんなことが出来るかい!」
いつの間にか火の消えたタバコを咥えたまま素子は、明るい窓の外に顔をむけた。
「きみに、来い、と云ってよこしたんじゃないの。わたしも来い、とは云ってよこしちゃいないよ。子供のおともじゃあるまいし、用もないのに、のこのこ、くっついて行かれるもんかどうか、考えてみればわかるじゃないか」
それはそうだけれども、と伸子は考えるのだった。
「御馳走によばれるのとはちがうんだから、わたしは、かまわないと思うけれど……」
ことの順序として、リュックスに電話し、きょうは素子もいっしょに行くことを、山上元に知らして、承諾を得ればいい。伸子はそれが不可能だと考えなかった。
「ね、そうしていいでしょう? この間のとき、あなたの話もでたのよ、だから……」
「まっぴらだよ。わたしが会いたければ、自分で勝手に行くだけだ」
素子の気分をやわらげようとつとめる自分に、伸子は抵抗を感じた。素子は自分から一度でも山上元に会おうと思ったことがあったのだろうかと。
十四
からりと晴れた、人通りの賑やかなトゥウェルスカヤ通りの角に立ったとき、伸子は思わずベレーをかぶっている頭をふって、深く息を吸いこんだ。
素子の前にひきすえられていたような、ホテ
前へ
次へ
全437ページ中397ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング