チたとき、ドアがノックされた。何となし、ききなれないノックの音だった。伸子と素子とは、目を見合わせた。
「お入りなさい」
 素子の声といっしょにドアがあいて、姿を現したのは、ベルリンの川瀬勇だった。
「やあ――いま、お茶かい?」
 まるで、ついそこから来たひとのような調子で、川瀬は、あいている長椅子のところへ行ってかけた。
「その後、いかがです?」
「そっちこそ、どうなのさ」
「うん、まあ、相変りつつ、相変らずってところだな」
「中館君は日本へかえったらしいね」
「ああ。結局帰ることにしたんだ。――その方がいいと思うだろう?」
 伸子たちがベルリンに滞留した去年の初夏、中館公一郎は川瀬勇などのグループにまじっていて、映画監督として新しく生きる方法について、いろいろの問題を悶んでいた。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ歌舞伎が来たとき、中館もモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいてソヴキノの仕事ぶりを研究したりもした。
「あのころもずいぶん、迷っていたようだったが……」
「みんな、それぞれ迷うんだな。しかし、あれでよかったんだろう」
 川瀬勇は、彼流に、説明をぬいた話しかたをした。
「ところで、君自身は、どうしているのさ?」
 長い脚をくんで、長椅子にかけている川瀬勇の頭から足の先までを、素子はわざと、じろじろ調べるように見た。
「例のひとの方は、どうなった?」
「結婚したよ」
 中国青年にみまがう眼のおおきな川瀬勇の顔の、耳の下がすこしあからんだ。
「じゃ、わたしたちも何かお祝いしなくちゃいけないわ」
 会ったことのない川瀬の新妻のために、伸子は何をおくったらいいだろうと思った。
「それもそうだが――大体、きみはいつまでここにいるのさ」
「きょうの午後、帰る」
「か[#「か」に傍点]、え[#「え」に傍点]、る[#「る」に傍点]?――ほんとかい?」
「ほんとさ」
「あきれたひとだ、じゃ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へはいつから来ていたのさ」
 川瀬は、だまったまま素子の顔を見て組んでいる脚をぶらぶらふりはじめた。彼として、素子の質問は答えるに不便なことらしかった。
「そんなことは、まあいいとして……午後立つというんじゃ御飯によぶわけにも行かないし……」
 ベルリンで毎日世話になっていた川瀬がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たのに、何のもてなしもするひまがなくなってから会うことになったのを、素子はひどく残念そうだった。
「――ひとこまらせだよ、こんなの……」
「出かけてしまっているかとも思ったんだが、ひとめ会おうと思ってね」
 もうやがて十一時になる時刻だった。伸子は、ひとのいい若い女らしい気のもみかたで、素子に相談をもちかけた。
「ねえ、川瀬さんに、なにをお祝いする? もって行かせなけりゃ。こっちから品物は送れないんだから」
「何にもいらないよ」
「そうは行かないがね」
 考えていて、伸子と素子とは、いちどきに口をききかけた。
「この間クスターリヌイ(民芸美術館)へ行って買って来たものを出して、見てもらおう。その中から気にいったものをよってもらうのがいいだろう」
「わたしもそう思ったところだった。じゃ、すぐ出す」
 床の上にひざまずいて、伸子は自分の寝台の下におしこんである籐の大籠をひき出した。そして、ロシア刺繍のほどこされた数枚のテーブル・センターと、まだ仕立ててない婦人用ルバーシカを、テーブルの上に並べた。
「ホウ。――こりゃ、きれいだ」
 ロシアの民芸として刺繍は世界に知られていた。色どりも図案も繍《ぬ》いかたも多種多様で、北方地方のものと、ウクライナ辺の作品とでは配色も模様も、全くちがった。
 伸子は、ルバーシカ地をひろげた。
「これにしましょうよ、川瀬さん、これはきっと、奥さんに似あうと思うわ、どう?」
 ざんぐりした麻の布地に、水色と空色金のようなレモン色、それにところどころ濃いブルーをちりばめて、小花のようにつづいた幾何模様が繍いとりされている。ドイツの女のひとであれば、ゆたかな金髪であろう。そして、川瀬の妻であるひとならば、きっと、さっぱりとした頬の色のひとであろう。そういう金髪と自然な頬の色に、このルバーシカを仕立てて着たら、夏のころには、なかなか眺める川瀬の眼にもたのしかろう。伸子は、そう思って、すすめた。
「だって、誰かが着るために買ったんだろう」
「あながちそうでもないんだから、いいよ。黒い髪よりは金髪のひとが着た方がひき立つ」
「そりゃあそうかもしれないね、この色どりは……」
 伸子は布地をひろげて、これはカラーの部分、これはカフス、これは胸前のたての襟になるところ、と、ルバーシカが仕立あがったときの形に、刺繍された布を並べた。
「ああそうか、その布
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