ッて、煙をふかく吸いこみながら、なおカンヴァスから目をはなさずにいたミチェンコは、突然、
「タワーリシチ・カンバーラ」
 蒲原の名をよんだ。そして、自分でもその発見に目をみはる声の調子で、
「どうして、君は、人物の肉体をすっかり描かなかったんですか」
 例の手まねで、
「足もとから、体をすっかり頭まで」
 自分の体の線をたどって足から頭まで人さし指を動かした。
 蒲原の画面では、催涙弾をうけた瞬間の市電従業員の群が左側に大きく迫った八分身で描かれ、早くも倒れた一人の婦人車掌の体をこして、むこうに、警官隊の例が見えている。
「全体の物語をお描きなさい。労働者たちが、こういう野蛮な襲撃をうけたとき、彼らは、いつだって全身でたたかわなければならないんです。ごらんなさい、こんな風に」
 蒲原の画面にあるとおり、ガス弾をうけてはっと両手で顔を掩《おお》い、肩をねじった労働者の、腰、脚、足元が、その瞬間どんな運動をおこすか、画家ミチェンコは、自分の体でやって見せた。
「ごらんなさい。体全体がこういう風に動くんです。体全体で抵抗するんです。肉体でたたかうんです」
 大きい掌で、蒲原の肩をたたいた。
「あなたには技術があります。やってごらんなさい。僕は君の成功を疑いません」
 こんどの批評は、蒲原順二を、長いこと彼の下絵のよせかけてある板壁の前から身動きさせないものをもっていた。ミチェンコの批評は、一枚の下絵について話された技術批評をはみ出して、労働者は彼らを搾取する権力のもとではどのように生きなければならないか。その真実についての物語の一節なのだった。
 伸子はミチェンコの批評の実感にうたれた。蒲原順二はポケットに手をさしこみ、両脚をひらいて立ち、浅ぐろい日本青年の顔をたれて、上目に自分の仕事に見入っている。彼のその様子には、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからきょうはじめて、正直に、参った、というところが見えた。美術上の問題の底が、ミチェンコが直截に描き出したような労働者生活の現実に根ざしている。そのことを、蒲原順二はみとめずにいられなかったのだ。そして、この理解は、彼がいくらか批判をこめた語調で、こっちの画家は大衆の目そのもので、絵を見ようとしているらしいですねと、その素人《しろうと》っぽい素朴なリアリズムの態度にふれた、彼の言葉の一部にある浅さをも、蒲原に自覚させているらしかった。
 画家らしさからというよりも、青年らしさから、ミチェンコの批評をまともにうけた蒲原順二を、伸子は親愛の感じをもって眺めた。

        十三

 プロレタリア美術家同盟は、蒲原順二の二度目のやりなおしを支持して、制作が完成したときに支払う予定の金の一部を、早く彼にわたしてくれた。

 その金で、蒲原は、同盟の事務所で知りあった若い画家の親戚という家の一室をかり、パッサージ・ホテルをひきはらった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河岸のあっち側で、ごろた石じき道の上に馬糞や藁くずの散っている倉庫通りから入った、裏町の一隅だった。
 ペンキのはげた木造の門が傾いて立っている。乱雑にがらんとした内庭をかこんで、いくつか建てられている古びた木造家屋の中には、幾組もの家族がこみあってすんでいるらしく、内庭に面してほしもののある出入口の階段に、子供たちがかたまって遊んでいた。
 蒲原のかりた室は、ひどく脂じみていて床の一部は腐っていた。
「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]には、むずかしい規則があるんだそうで、僕はここで借室人ではないんです、泊り客というわけなんです」
「なるほどね。お客をとめるにしちゃちょっとひどすぎるけれど、絵をかく人なんだから、ホテルになんぞいるよりずっといいですよ。ホテルじゃ画なんか描けっこないさ。雰囲気がないんだもの」
「そうなんです」
 蒲原は、伸子たちのところを出た動機が、素子にも自然に理解されていることを満足そうにうなずいた。
「おまけに、僕自身、少々、まとまりよく出来すぎているんです。――芸術家として、マイナスだと思うけれど、生れつきかなあ」
「ふ、ふ」
 素子が好意とからかいとを交ぜて若者を見る、年かさの女の眼で蒲原を見た。
「それできみが芸術家きどりだったりしたら、一日でわれわれのところはおはらいばこさね」
 蒲原は、意識してか意識しないでか、伸子と素子と、どちらに対しても、中性的な存在として暮したのだった。

 補助ベッドがとりはらわれて、伸子たちの部屋は久しぶりにひろびろした。何もなくなった床のそのところに窓からの朝日がさしこんでいる。気がねなしに、ぬいだり着たりすることは伸子にとって新鮮なくつろぎだった。
 そういうある朝、二人きりの、のんきな時間で伸子と素子とが茶テーブルに向いあ
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