ネ工合にしてうまれるものか、全然理解されていない。
「あなたが、報告によっていろんな問題を具体的に判断おできになるのは、何と云ったって、日本で、自分で、労働運動をやっていらしたからじゃないでしょうか」
「うん、それはそうだ」
しばらく、二人の間に話がとぎれた。やがて山上が伸子にきいた。
「日本では、いま本をどの位発行しているかね?」
「部数ですか?」
「うん」
「文学書は、千か二千ぐらいじゃないでしょうか。大菩薩峠なんてものは、何万でしょうが」
「そんなものか。君の本なんかは、どうかい」
「わたしのなんか、少いですよ」
伸子は、いくらかくつろいだ笑顔をした。
「こっちへ来る前にかいた長篇は、千と二千の間だったようです」
「そんなことじゃ仕様がない!」
白髪の頭を山上元はきつくふった。
「プロレタリア作家の本も、日本じゃそんなに少ししか売れないのかい?」
「それはもっと多いでしょう。『戦旗』だって、かなり出ているらしいし、『太陽のない街』や『蟹工船』は、もちろんもっと出ています」
「それだって日本じゃどうせ高がしれたもんだろう。こっちじゃ、ファジェーエフの作品なんか百万部よまれているよ」
それはそのわけだった。図書館、労働者クラブ、学校・工場・役所の図書室、ソヴェトじゅうの公共施設は、あらゆる古典と現代の代表的な作品をそなえつけようとしているのだから。それが五ヵ年計画の文化計画の一部であった。
「日本の読者は、めいめいの懐で、一冊の本だって買わなければならないんですから、つらいんです」
「それもそうだな」
山上元は、ちょっと考えこんだ。彼も、青年時代には、一冊の本を買うことも出来にくい生活だったのだ。
「ところで、どうだい、ほんとに、こっちで暮す気はないかね」
「それは、うれしいけれど」
「けれど、どうなんだ」
「あんまり思いがけないから」
「まさか、親に相談しなくちゃならないわけでもないんだろう?」
このままモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に居ついてしまうということは、形の変った亡命だった。佐々の両親に、何を相談するべきことであるだろう。
「そんなら、きみのはら[#「はら」に傍点]ひとつじゃないか」
「わたしは、こっちにいてしまってもいいけれど、仕事がわからないんです」
伸子の心は、山上元がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にとどまるようにと云った瞬間から、もう九分どおり決ってしまったようなものだった。伸子が、最後の一分でわからないでいるのは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に止ったとして、それからの伸子がするべき仕事は何かという実際上の問題だった。伸子は、年齢にくらべると、早くから文学上の仕事で働き、それで生活しつづけて来た。
「何も心配することはない。きみの能力ですることはいくらもある。ありすぎるぐらいだ。いくらいい小説を書いたって、日本じゃせいぜい千単位なのにくらべりゃ、こっちで、十万部読まれた方が、どんなに作家としたって気持がいいかしれなかろう。ソヴェトじゃ、どんな本だって、少くとも出版されるからには十万が最低だよ」
それは、大きい部数がよまれるのは作家にとってうれしいことに相異なかった。しかし、それにしても、いい作品をかく、ちゃんとした作品が書ける、ということが先決問題であることに疑いない。伸子には、その点が、わからないのだ。そして、話しているあいての山上元が、そういうこまかい実際の点を理解していない――というよりも、国際的な革命家として、そういう面に直接ふれる必要のない生活を送って来ているひとだということが、伸子に切実に迫った。出版される部数の多寡だけに、文学の意味はないと思われる。――
「こうしてはどうでしょう」
こんどは、伸子から提案した。
「一週間たったら、考えをきめた上で御返事に来ます。それでは、どうかしら」
「そうしよう!」
山上元も、このまま問答をつづけているのは、時間のむだだと感じはじめていたらしかった。
「それでいい。じゃあ来週のきょう。いいね。やっぱり三時」
山上からみれば自分はどんなに不決断でまどろっこしい女だろう、と伸子は、きまりわるく思った。
帰りかけようとする伸子を山上が、
「あ、ちょっとたのむものがある。待ってくれ」
と、とめた。彼は、寝台と反対の壁ぎわにつくりつけられている高い書棚から二冊の本をもって来た。
「これは、きみにやる」
ヴェーラ・フィグネルの伝記であった。ロシア革命家叢書のうちの一冊で、革命から間もない一九二二年に出版されているその本は、そのころの窮乏をものがたってわら半紙のように粗末な用紙に印刷されている。
「フィグネル、知っているんだろう? |人民の意志《ナロードノ・ヴォレツ》党の婦人闘士だった女だ」
石版刷
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