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「僕は去年の暮にもうベルリンだったから、現場は見ません、『戦旗』に出ていた写真、みませんでしたか」
 伸子たちは、メーデーの半月ばかり前から思いもかけず、ベルリンからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た若い画家の蒲原順二と、一つホテルの部屋に雑居生活をしているのだった。
 蒲原は気をくばって、夜着物をぬいで寝るときとか、朝起きて女二人の身じまいする間、場をはずして、伸子や素子の迷惑にならないようにふるまった。そのかぎりでは、一人の男が、二人の女の中にまじった生活も大した煩わしさではなかったが、そもそも、蒲原順二が伸子と素子の生活に出現したいきさつは唐突だった。
 ある午後|В《ヴ》・|О《オ》・|К《ク》・|С《ス》(対外文化連絡協会)から伸子に電話がかかって来た。このごろは、あまりВ・О・К・Сへ出かけない伸子に、是非たのみたいことがあるから、すぐ来てくれるように、というのだった。
「何の用なのかしら」
 また日本から、芝居か映画関係の人が来て、その交渉の助手のような用でもあるのかと思った。
「あなたをよべばいいのに」
 仕度をしながら、伸子はいくらかこぼす口調だった。
「あなたなら、言葉もちゃんとわかるんだのに」
「わたしは、いやだよ。ぶこ[#「ぶこ」に傍点]ちゃんがいいのさ。わたしのつっかえつっかえの正しいロシア語より、ぶこ[#「ぶこ」に傍点]の一斉射撃の方が、結局役に立つんだろう。数の中から、必要な言葉をひろうこつ[#「こつ」に傍点]さえわかれば、結構ぶこちゃんのロシア語がてっととりばやいんだ」
「ともかく行って見よう。わたしに出来ないことだったら、ちゃんと、ことわるわ」
「そうさ、もちろん、それでいいさ」
 |В《ヴ》・|О《オ》・|К《ク》・|С《ス》の二階にノヴァミルスキーを訪ねると、彼の机のわきにまだ若い一人の日本の男が腰かけていた。その青年は、入って行った伸子を見ると、すこし腰をうかすようにして伸子を見知った表情を浮べた。ノヴァミルスキーは、
「おお、サッサさん」
 立ち上ってひどく背の高い上体を机ごしにこちら側の伸子の方へ折りまげ、伸子の手を握った。
「どうぞ、おかけ下さい」
 伸子がかけると、彼は、机に両肱をついてぐっと体をもたせかけ、例の、喉仏が一オクターヴも下ってついているようなめずらしいバスの声ではじめた。
「こういうわけです、佐々さん。ここにいる日本の青年は、さっきベルリンから来た画家です。ヘル・ジュンジ・カンバーラ」
 ノヴァミルスキーは、伸子に蒲原順二を紹介した。
「彼は、ドイツ語を話します。しかし、ロシア語は全然知りません。いかがでしょう、何とかあなたとヨシミさんとで、彼を落付けるようにしてやって頂けますまいか」
 伸子は、何だか話がさかさ[#「さかさ」に傍点]なような気がした。|В《ヴ》・|О《オ》・|К《ク》・|С《ス》は、こういう人にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]滞在の便宜をはかる、組織であるはずなのだ。
「――わたしには、ことがらがよく理解されないんです。どうして、わたしたちが彼を、世話しなければならないんでしょう――個人的に――」
 そう云っているうちに、伸子には、いろいろ具体的な疑問がわいた。
「わたしたちは、ベルリンで彼に会っていません。いまはじめて会ったばかりです」
 蒲原順二が、ほんとにちっともロシア語を知らないのか、あるいは少しはわかってきいているのか、伸子はそういうことにかまわず、文法のあやしいロシア語で、ためらわず話した。
「彼がどんな画家であるか、わたしはそれを知りません。ベルリンで彼がどのように生活して来たか、わたしたちは、それも知らないんです。あなたに、それらのことがわかっていらっしゃるんでしょうか」
「わたしも知りません。だが、彼はベルリンで描いた絵を数点もって来ています、それは今、美術部のものが見ていますが――ちょっと待って下さい」
 ノヴァミルスキーは席をたって大股に机の角をまわり、廊下の方へ出て行った。ノヴァミルスキーのいるところは接客室とも云うべきところで、美術・宣伝部は、階段の反対側にある広間だった。
 二人きりになると、蒲原順二という青年画家は日本人同士のくつろぎのあらわれた表情になって、
「どうも、すみません」
 伸子に世話になることがきまっているように挨拶した。
「いいえ。――でもいきなりで。――いつおつきになったの?」
「二時間ばかり前、停車場からタクシーでまっすぐここへ来たところなんです。日本へ帰る前、是非いちどモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たかったし、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で知っているところと云えばВ・О・К・Сしかないもんですから」
 蒲原順二は、去年の十二月はじめ
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