フがたまっていた。
「自分自身を飛び越えようとする笑止千万な企図」をスターリンの論文が根本から批判したことは、すべての正直なソヴェト市民に、良心のよりどころを与えた。コルホーズ組織という一つの階級的事業の進行について、この論文が、はっきり「実際的な結果」と「党そのものの内部生活にとって、党の教育にとって」重大な意味をもつ論点とを、互に一体のものとして念入りに解明している態度が、伸子にまでも、信頼とよろこびとを感じさせた。ひどい手間をかけて、二日がかりでその論文をよんでいた伸子は、最後の一節を終ったとき、太い赤鉛筆の線をひきながら、深い満足をもって、|その通り《トーチノ》! とつぶやいた。「指導の技術は、重大である」「二つの戦線に対して、即ち、落伍しているものに対しても、先っ走りしているものに対しても、たたかわなければならない」そのとおりだと伸子は思ったのだった。
いま、思いがけず「成功に眩惑するな!」とかかれたプラカートを見つけ、伸子は、それらのすべてを思いおこした。長いことその論文の上に肱をついて、これやあれやのいきさつを考えしめていた自分。これというのはその論文だった。あれというのは、その数日前に第二芸術座で観た「チュダーク」(変りもの)というアフィノゲーノフの四幕もののことだった。舞台にのぼる五ヵ年計画の英雄の型がきまって来て、意義ある活動をするのは共産党にきまっているようになった。アフィノゲーノフの喜劇は、その型をやぶって、共産党員でない「変りもの」が彼の流儀で成就する階級への協力をとらえた。「変りもの」をそんな風に活躍させるゆとりを知っていた職場細胞の指導者へ、観客の関心をほどよくひきつけながら。――
「チュダーク」(変りもの)はあたたかい笑いで観られていた。
マヤコフスキーの「風呂」の主人公、プロレタリア発明家はチュダコフという名だった。それはチュード(奇蹟)からもじられた名だった。彼は、幕切れで、妙な高いところへ姿を消してしまった。チュダークはその字のままに変り者で、だがチュダークの本質は決してへんくつ[#「へんくつ」に傍点]な変りものではなかった。陽気な舞台で、軽くちを云いながら、痛烈に官僚主義と石頭とをやっつけ、人々を笑わせている本心は地道なチュダークを眺めながら、伸子は、マヤコフスキーと全くちがったアフィノゲーノフの人生における、しなやかで、もちのいい智慧のようなものを感じた。同時に、五ヵ年計画によって変化している現実は、こういう共産党員でないあたりまえの人々の存在とその活動の評価についてこれまでとちがった考えかたを肯定しはじめて来ているとも感じたのだった。
「成功に眩惑するな!」プラカートのスローガンは、きょうのメーデーの華々しさのすべてをその底で支えている冷静なつよい力のあることを伸子にあたらしく感銘させながら、だんだん人波のかなたに遠ざかって、やがては、のび上っても、もう伸子の立っている場所からは見えなくなってしまった。
暫くの緊張からとかれた伸子のぐるりに、ふたたび、群集のどよめきと、赤い広場からのウラーが甦って来た。
「ことしのメーデーって、何だかいろいろ内容があるようだわ」
人の流れにしたがって、もと来た道をトゥウェルスカヤ通りの方へ戻りながら、伸子は、複雑なことを単純にしか云いようがない風でつれだっている素子に云った。
「そう言えばそうだな」
「元気がいいっていうばかりじゃなく。――さっきのプラカートみたいなところ――元気よさに、新しいたて[#「たて」に傍点]の深みみたいなものが出ているでしょう?」
その底のたしかさを、伸子は、胸のうちにうけとったように感じるのだった。
十二
このメーデーに、日本では川崎に武装した労働者の行進が行われた。
プラウダに次々報道される各国のメーデーのニュースのなかに、そういう記事を見出したとき、伸子は、衝撃をうけた。伸子は、日本がどういうことにか成ったかと思った。
「革命的な数百名の労働者が武器をもって行進したってあるけれど――でも、なぜ?」
一九一八年の米騒動のときのような意味があるわけではないらしかった。武装するということも全国的に行われたのではなくて、そんなことのあったのは川崎市でだけのことらしかった。
「武装したなんて、変なみたいな話だな。どうせおまわりとぶつかるのが関の山なんだろうのに、武装なんて――」
伸子たちの部屋の入口よりにおかれている補助ベッドに腰かけている若い画家の蒲原順二が、素子の不審を註釈するように、
「このごろ、とてもひどいですよ」
伸子たちの知らない日本を説明した。
「市電のストライキのときだって、従業員はしずかにしていたのに、いきなり催涙弾をぶっぱなしたんですから」
「あなた、ごらんになったの?
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