ヘずの)麦の耕地の空のところに――というのは、あいにく絵が下手で、そのプラカートの上に描かれた麦の穂波は、一面の黄色っぽい絵の具の洪水にすぎないのだったが――「成功に眩惑するな」スターリン。集団化! 機械化! 農村の五ヵ年計画! とかかれている。プラカートをになっているのは、もう年配の男だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の労働者が、いつもメーデーからかぶりぞめをするクリーム色、夏のハンティングで、すこし猫背の小柄な体に、これもモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではおきまりの葡萄色のレイン・コート兼合外套を着ている。
「――ちょっとあのプラカート見てごらんなさい」
 伸子は、素子の注意をうながした。素子も小さな興味を目に浮べて見ていたが、
「ありゃ、おっさん御自作らしいな」
「――そうかしら……」
 メーデーのためには、どこの職場の準備委員会も、プラカートには新機軸を出そうと趣向をこらしているわけだった。しかし、五ヵ年計画を四年で! と、帝国主義戦争反対という当面の大きいテーマは共通だし、その上準備委員会はどこでも、スローガンをえらぶとなると、|絶滅せよ《ダロイ》! というような文句が先へ来る言葉をこのんだ。その結果、伸子たちが歩いた街々に波うっているプラカートは、幾千、幾万つらなる赤い旗が、その中にどんな別のひと色もまじえない赤旗ばかりであるように、スローガンも似たりよったりのくりかえしだった。|絶滅せよ《ダロイ》! につづいて、あるものは帝国主義戦争、あるものは買占人《スペクリャント》。絶滅せよ! 官僚主義。という風に。――
 たっぷりした日光をうけながら、埃っぽい公園の河岸っぷち道をゆっくり帰ってゆくプラカートの「成功に眩惑するな!」という黒い文字は、不思議に新鮮で、生活感をよびさましながら伸子の心をひきつけた。
 プラカードに気をとられながら伸子の頭の中に、ホテル・パッサージの従業員の部屋の「赤い隅」の光景がうかびあがった。伸子たちがアストージェンカから越して来た時分、その部屋のうす青い壁の上に、プラウダから切りぬかれたスターリンの論文が、壁新聞にして貼ってあった。その論文の題が「成功の眩惑」だった。スローガンは、まぎれもなく、そこからとられている。
 農村のコルホーズ化が急速に成功して、二月下旬にはソヴェトじゅうの農家の五〇パーセントが集団化され、春の蒔きつけ用の種子がもう計画の九〇パーセント集められたと、各新聞は賑やかに報告して間もないころだった。スターリンの論文はそのような「成功」のかげに行われているいろいろな無理なやりかたについて、おそろしく率直に実例をあげて自己批判をもとめたものだった。コルホーズの成功は一部の指導者たちの間に「一挙にして社会主義の完全な勝利に駆けつけることができるのだから」「吾々はどんなことでもできる」という気分を生じさせた。トルケスタン地方では、農民を武力で脅し、コルホーズに加入したがらない者の耕地には灌水してやらないとか、工業製品を供給してやらないとか脅した指導員があった。伸子は、噂が事実あったことだったのを知った。スターリンの論文は、トルケスタン地方とウクライナ地方とそれぞれちがった条件の見境いもつかないで、「役人風な法令による命令主義、下らない脅迫」紙の上だけの決議や「存在してもいないコルホーズについて自慢たらたらの決議」など巧名をあせる指導員の「政策」を、チェホフの諷刺的な小説の主人公、下士官ブリシベエフ的な「政策」として、批判した。批判の鋤は力づよくごみの山をすきかえしていて、伸子はそこに、おかしな虫けらや、臭い汚物が掘りかえされ、日光にさらされたのを見た。コルホーズ組織の「『容易な』、そして『思いがけない成功』という雰囲気においてのみ発生することのできた」「だらしのない愚劣な気分、即ち『吾々はどんなことでもできる!』」という気分は、「成功で有頂天となって、明確な理智と冷静な見解をしばしば失ってしまった結果としてのみあらわれた」という点を、論文はその冷静な分析のために一層ぬけ道のない印象で追究していたのだった。
 伸子が空色ヤカンを下げて通りがかるパッサージの従業員室の壁新聞の上でも、このスターリンの論文は、ずいぶん古びるまで皆からくりかえしよまれていた。論文は、人々の生活感情につよい信頼をよびさましたのだった。なぜなら、コルホーズ化のやりかたにあらわれれて、口から口へつたえられていた無理は、一月の、階級としての富農絶滅のための論文以来、漠然と予感されていたものだった。形のかわった何かの無理、或は馴れない新方式は、たとえばパッサージの経営に人民食糧委員会が新しく人を派遣してよこすような細部にもあらわれて、市民の気持には、何か日々に晴れやらぬ圧迫感めいたも
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