驍フだろうか。それは伸子自身にわからなかった。伸子にわかっているのは、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]がなおつよく自分をひきつけているという事実だけだった。素子と伸子とは、もう幾年間も一緒に生活して来たものの毎日で、とりたててそのことについて議論するというのでもなく、その問題をもって来ているのだった。
ある午後、素子は大学へ行っていて、伸子がひとりホテルの室にいたときだった。窓から、晴れた早春の空を眺めていた伸子はふっと、これから行って見よう、という気になった。この間から、伸子はしきりにトゥウェルスカヤ通りの上《かみ》にあるリュックス・ホテルのことを考えていたのだった。そこに日本のふるい革命家である山上元が住んでいた。山上元がそこにいることは公然の秘密のようなもので、新聞記者である比田礼二が会ったことをきいていた。
伸子はホテル・リュックスに電話をかけた。そして、山上元と話せるかどうかをきいた。じき、山上元の声がした。
「あーあ。もし、もし」
いくらかせっかちな、元気のある年よりの声だった。
「わたしは佐々伸子ですが――」
くどくど自己紹介をしていたら、まどろっこしがられそうで、伸子は直接法に、
「お目にかかることができるでしょうか」
ときいた。
「いいよ。来なさい。いつ来るね」
「これからでもいいんです。いま、パッサージからかけているんですけれども」
「じゃあーと、二時四十分に待っていることにしよう」
伸子は、あわてたようにおっかけて、すこし声をつよく念を押した。
「わたしが上るのは、なにも特別な用じゃないけれども、かまいませんか」
「そんなことは、かまわない。――二時四十分。わかったね」
山上元は、伸子がリュックス訪問について知っていなければならない一つ二つのことについて教えて、電話をきった。
受話器をかけてから、伸子はちょっとの間その廊下の角にたたずんでいた。何と簡単だろう。幾日も考えていたことが、あんまりあっさり運ばれたので、伸子は自分ひとりがもたついたのこそ下らない躊躇だったと思った。
室へかえって、伸子は五分おきぐらいに時計を見ていた。パッサージとリュックスの間は、ゆっくり歩いて十五分かかるかかからないかだった。
伸子は早めにホテルを出て、ゆるやかな登りになっているトゥウェルスカヤ通りを、のぼって行った。革命まえまで、モローゾフの店だったところが外交団専用の食糧品店になっている。そのすこし先の右手に、ホテル・リュックスがある。約束の時間きっちりに伸子はその入口のガラス戸を押して、大理石のしきつめられた奥ゆきのあるホールへ歩みこんだ。
ホールは人影がない。両側の大理石の腰羽目の上に張られている鏡の上に、伸子は自分の姿を映されながら、つきあたりにデスクをひかえている受付に、旅券をわたした。小さい紙に自分の姓名と、会おうとしている山上元の名をかいた。受付の男の眼つきは、落ちついていて、しかし見たものはよく記憶することができるという眼つきだった。
多勢の人がその中に住んでいる建物の内廊下は、どちらかというと光線が不足で、近くに食堂があるのかあったまっている空気に煮えているシチ(キャベジ入スープ)のにおいがした。人々が忙しそうに行き交う廊下をとおって、アルミニュームの鍋をはこんでゆく婦人がある。事務的であるが家庭的でもあるような雰囲気を、伸子はものめずらしく感じた。リュックスには、国際共産党関係の人たちばかり住んでいるはずだった。コミンターンという名から伸子がうけて来ているいかめしい感じは、廊下にまでただよっているシチのにおいで、ひどく人間ぽいものにされた。
肩の力が和らげられた気分で、伸子は大廊下を左に曲り、一層光線の足りないわき廊下に向って、しまっている両開きの大扉の上を見ながら進んだ。白いペンキでドアの上にじかに318と書かれている。そこが山上元の室であるはずだった。
伸子は、割合力を入れてノックした。
「おい」
そんなような返事がした。さっき電話できいた山上の声であった。伸子は、ドアをすこし開き、室内の見えない位置に自分をおいたまま、
「入ってもようございますか」
「おはいり」
古びた、大きな、ごたついた室の右手のデスクで山上元はタイプライターをうっているところだった。
「もうじきすむから、そこへかけて待っていなさい。――どうせ、いそぎゃしないんだろう?」
その云いかたは、どこかいっこく[#「いっこく」に傍点]らしく「自伝」で伸子が感じている率直な親しさがあった。
「どうぞ、ごゆっくり。いそがないから」
イタリー風の出窓とよばれる三面ガラスのひろい出窓のよこに、白布のかかった角テーブルがあり、その奥の壁につくりつけて二人がけの長腰かけがある。伸子は、その隅っこへ自分をおち
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