ツけた。
もちよく着古された柔かな皮のジャンパーを着た山上元は、はじめっからタイプライターの前から立たずに伸子と口をきき、それなりまた仕事に没頭してタイプをうちつづけた。伸子の口元が思わずゆるんだ。山上元のタイプのうちかたは、どうやら指のはこびがぎごちないような響をもっているくせに、いかにも力がはいっていて、紙のうしろへ字がぬけそうにパチ、パチ、パチパチと大きな音でうたれるのだった。
出窓のところに、形のはっきりしない、そこに何がはいっているのか、何のために必要なのか外来者にはわからない品々が、いろいろ置いてあった。それは、どれも事務用のものではなくて、家庭的な用途をもっていることだけは察しられる。出窓に一本綱がはりわたされていた。そして、無頓着な風で、そこに婦人用の靴下がほしてあった。窓のまん前にぶら下っていて伸子がおさまっている場所から左手に、見あげる婦人靴下はひどく長いもののように見えた。ああ娘さんが来ているのだ。伸子は山上元のためによろこぶきもちで考えた。
山上元が日本を去ってからもう十五六年たっていた。一年ばかり前、彼の一番末の娘が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来たという噂があり、伸子は日本の新聞でも日本脱出という角度からのニュースをよんだ。彼の家族は、山上元の家族であるという理由だけで、迫害されつづけ、三人の子供たちと細君とには、子供の世界にさえ安らかな朝夕がないばかりか、生きてゆくために働くくちさえ与えられなかった。幾代という、こんどモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来た娘は、日本でわたしたちはあんなにいじめられた、おそろしいところへ、二度と住みたいと思っていない、という談話があった。その娘さんの上の舞踊家である娘も、来たようだったが、そのひとはどうしたのか、父のもとへのこったのは、幾代という十七八歳のひとだけらしかった。
だらりとのびて、ぶら下っている婦人靴下は、伸子に、気のおけない父と娘とのこの室での生活を思わせ、大杉栄の妹であるひとの身の上を思いうかばせた。
さつき[#「さつき」に傍点]というそのひとは、結婚して、宗一という息子をもっていた。六歳の少年である宗一は、一九二三年の九月二十日に、大杉栄、伊藤野枝といっしょに憲兵隊でくびり殺された。自分の編輯で個人雑誌を出していた三島しづ子という婦人が、さつき[#「さつき」に傍点]夫人をなぐさめる集りをしたことがあった。その集りも、内輪にひっそりと、三島しづ子の住居の二階で行われた。さつき[#「さつき」に傍点]夫人は、髪のあげようからしてごくおとなしい中流の主婦のものごしで、その人として生れもって来たものも、大杉栄の妹であるということから、すべてをころし、ありふれた意味で一点非のうちどころない妻であり母であろうとして来たひとの姿だった。さつき[#「さつき」に傍点]夫人の口からは、ひとことも、憲兵の惨虐な行為に対するいかりは洩らされなかった。つましく膝の上に手をかさね、それまでうつむいていた顔をあげて、わたくしも、こんどのことで、もう生きている意味がなくなりました。静かにそう云った。大杉栄と妹のさつき[#「さつき」に傍点]とは別なのだからと云って、夫であるひとは彼女と結婚したのだそうだった。互の理解で幸福な家庭がもてて行くと思った夫婦の考えは、単純すぎたということが段々わからせられた。或る会社につとめて有能な彼女の夫は、栄達の機会が来るごとに、大杉栄の妹を妻にしているということから、もうちょっとのところでその地位をひとに奪われた。結婚してから、三四度、そういうことがくりかえされて来ている。口には何とも云わない夫の心のうちを思うと堪えがたくて、さつき[#「さつき」に傍点]夫人は、幾たびか、身をひこうとした。そのたびに、幼い宗一が母を失うということが夫婦の結びめとなっていた。その宗一までも、大杉栄の甥であるということのために殺された。わたくしがどんなに努力して、まわりの幸福をねがっていても、それは決して許されない運命なんでございます。
その席にいた伸子の体は、さつき[#「さつき」に傍点]夫人の語る言葉で簀《す》巻きにされるように苦しかった。佃との結婚生活におちつけなくて、三島しづ子の活動的な日常に近づいていた伸子は、一途な思いで、さつき[#「さつき」に傍点]夫人夫婦の考えかたは、被虐的すぎる、と思った。世間並でない事情をもって愛しあって行こうとする夫婦なら、どうしていつまでも世間並の会社づとめやそこでの出世などにかかずらっているのだろう。それこそ、手鍋下げても、いいであろうに、と。しかしさつき[#「さつき」に傍点]夫人にとって、自分さえいなければいいのだ、という考えを変えることは、彼女の全コースをくずすことらしかった。その日の席
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