、、しめてるだろう」
「ともかく、行ってみるわ」
 十二時すぎた裏階段を、伸子は階下まで駆けおりた。そして、大いそぎで台所への廊下をゆくと、従業員休憩室はとうに暗いが、いいあんばいにつき当りの台所のドアはまだあいていた。奥から、食器類を洗っている音がする。伸子は、ドアから入った。そんな時刻にかかわらずニッケルの大湯わかしのコックから熱湯の湯気がふいていた。
「まあ、運がよかった! お湯を下さい」
 大流しに積まれた皿類を洗っている女は、伸子が見たことのない四十がらみのひとだった。骨ばった、力のありそうな体つきで、たった一人、皿洗いしていたその女は、洗い桶のところから伸子を見た。
「どうぞ」
 彼女はパジャーリスタとは云わないで、よく街頭の物売女がいうようにぞんざいにパジャーリチェと云った。ざらっとした声だった。顔だちや髪に荒れたところのある、だが身をもちくずしたというのでもないその女は、パッサージでは見かけることのすくないたちの女だった。
「どうして、こんなにおそくまで、お皿を洗っているの?」
 ニッケル湯沸しのコックに空色ヤカンをあてがいながら、湯気の間から伸子がきいた。
「ドイツから代表がついたんです。彼らは、ついてから食べたんです」
「あなたは、臨時?」
「そうですよ」
 皿を洗いながら、女は、
「臨時ってのは分《ぶ》がわるくてね、仕事がいつだって多いんだから……」
 ぬれ手をあげて腕で、額をこすった。
「臨時は、臨時の手当てがあるんでしょう? あなた、いくらとるの?」
 女は、すばやい視線で、伸子の質素な白いフジ絹のブラウスを見た。
「いくらでもありゃしませんよ」
 だまっている伸子に、その女は、ざらっとした声で、あたりまえに云った。
「いくらにもなりゃしないけれどもね、この頃じゃ、ずっとつづけて仕事があるんでね。それが大きいんですよ。並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》をぶらつかないでも食べて行けるってことだから……|分るでしょう《パニマーエッシ》?」
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》をぶらつく、と云えば売笑をすることだった。――
 伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の生活の深みをさぐっている自分の理解の石づきが、この女の言葉で、ごく底のたしかなところへ触れたと感じた。五ヵ年計画。社会主義建設。何かしら上へ上へと聳え立って行くような立派さとしてだけうけとられがちだけれども――「風呂」を見ればマヤコフスキーも、そう感じていたにちがいなかった。あるいは、そう感じるべき[#「そう感じるべき」に傍点]だと考えさせられていた[#「考えさせられていた」に傍点]のかもしれないが――社会主義の最も強固で広い基底は夜勤の臨時皿洗いの女が、もしかしたらいくらか病毒におかされている彼女のざらっとした声で云った数語の上にあった。「――ずっとつづけて仕事があるんでね、それが大きいんですよ。並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》をぶらつかないでも食べて行けるってことだから。――」
 彼女が、伸子にへだてのない|お前よび《トウィカーチ》でパニマーエッシと云ったとき、その響きのなかには、生きてゆくということはどんなことかを知っている女同士としてのいつわりなさがあった。

        十

 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活において、伸子はその力づよい活動の表面にひろくひろがってゆくよりも、底へ底へと自分をひきこんでゆこうとする、はげしい欲求に導かれていた。
 やがて二人はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を去るわけだった。その方向に金もつかいはたされつつある。一二ヵ月の先に迫ったことではないにしろ、遠からずモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいなくなる準備として、素子はほしいと思う本を、順序だててぜひいるものから買い集めている。民芸博物館へ行ったときは、伸子も美しい刺繍の飾手拭やテーブル・センターなどを買った。そんなものを帰国の用意のように買いながら、伸子は半ば自分を信じていない気持なのだった。ほんとに自分はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]からいなくなるのだろうか。――日本へ帰らなければならない、という必然が、伸子にはっきりしなかった。
 素子は、ソヴェトへの旅行を決心したとき、かたわらでぐずついている伸子にかかずらわないで自分の出発の準備をすすめた。伸子はついて来た。
 素子は日本へ帰ろうという計画を、伸子がパリにいた間に、きめたようだった。彼女の日常の万事がその方向に進められている。伸子は、やっぱり窮極には素子についてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]を去
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