ネ雰囲気が、どことも知れず変った。食堂でノーソフは正餐《アベード》のサーヴィスをしても、心づけを全然うけとってはならないことになった。ノーソフにとって、このことは、僅かな金の問題よりも、むしろ、長年給仕として保って来た彼なりの職業上の誇りというか、生活の習慣にかかわる問題であるらしかった。というのは、伸子は、一週間ばかりして、ノーソフの上にあらわれたいくつかの変化に心づいたのだった。いつの間にか、ノーソフは御自慢の巻き髭にコテをあてなくなった。ある日の正餐のとき見たら、巻き上っていた彼の栗毛の髭は、平凡なチョビ髭にきりちぢめられていた。サーヴィスする手の小指にはめられている指環はもとのままであったけれど、彼のものごしにあった給仕独特のリズミカルな軽やかさは失われた。男給仕の水商売めいた曲線と弾力がノーソフの全部から急速に消えた。そのうちに廊下のテーブルへ通って来ていた婦人が交代して、年ごろは同じ二十五六歳だが、商業学校でも出たらしい亜麻色の髪の青年にかわった。台所と休憩室にまた話し声がしはじめた。その青年は、水色ヤカンを下げて台所へ湯をとりにゆく伸子にも、くちをきいた。
伸子は、パッサージで暮していた間、これまでも毎朝バターの切れを一つ、一ルーブル半で買っていた。湯だけもらって来て、朝の茶を、自分の配給で買って来たパンや胡瓜漬でたべるようになっても、伸子はバターだけ食堂から買った。アホートヌイ・リャードの闇市はなくなった。トゥウェルスカヤの外交団のための食糧店は伸子たちの出入りしたくないところであったし、またそこのものは特別価格でもあった。伸子たちは工場にも経営にも勤務していなかったから、素子の友達のオリガをはじめ大部分のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]市民が便宜を得ているように、勤め先の食糧販売所を利用することもなかった。そういう伸子たちにとって、バター、チーズは、パッサージの食堂からしか買いにくいものだった。
廊下に机を出してひとがつめて来ているようになってから、伸子には、折々、バターが買えない日があった。そのひとの目をはばかってノーソフが売らないというのではなく、何かの都合で、パッサージにわり当てられる一日のバターの総量が、一日平均のサーヴィス予定とぎりぎりであるというような日、伸子が買えるバターはないのだった。バターのない日、伸子たちはパンの上へうすく切った塩づけ胡瓜だのイクラだのをのせて、すました。朝飯や夜食を食堂でたべれば、当然バターはとれた。しかし、文明社が伸子へ送る金をことわってよこしてから、伸子たちは、ひきしめたやりかたをしていて、正餐だけしかホテルの食堂ではとらないのだった。
文明社が社長の立候補で損をしたという理由で金を送ってよこさなくなったことは伸子の手もとをつまらせたし、ソヴェト同盟が、ウラジボストークにある極東銀行を閉鎖したことは、東京の従弟を通じて素子がうけとる自身の金の取り扱いを複雑にした。
伸子も素子も金につまっているのだった。伸子は、いまのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で、自分たちが不如意にいるのは、いいことだと思った。五ヵ年計画の壮大な図取りと、異常な努力で遂行されているその成果について、人々は「プラウダ」でよむことができ、労働者クラブのパノラマと統計で見ることが出来、すべての集会の演説できくことが出来た。化学労働者クラブに、ドニェプル発電所建設のほんとにみごと[#「みごと」に傍点]な模型がつくられていた。そのまわりを囲んで立つ男女労働者たちは、何というまじりけない感歎と、期待とほこりをもって「われらの成果」たるドニェプルの模型にスウィッチを入れ、赤・青の豆電気が、かわりがわり、大きい模型の重要地点にきらめく様に見入っていることだろう。
うっとりするほど壮大で美しい、そしてほこりたかい五ヵ年計画を完成するために、努力の日々の中でソヴェトの人々はどんなに各自の生活を重点的に整理しているか。その現実を伸子が身に添えて理解するのは、パッサージで買えない日のあるようになったバターの問題であり、ノーソフの意気銷沈の意味であり、台所と食堂のその廊下に据えられた一台のテーブルとそこへ来た婦人――その人のいる間、なぜホテルの階下は陰気になっていたか。それから代った青年になって、カーチャの笑声をきくことができるようになったのは、何故かの問題だった。
伸子のささやかな存在は、生活そのもので五ヵ年計画のすべての壮大さと、同時に、うけとらずにいられない日常的なこまかい現象の一つ一つを味わいかみしめて感じとっているのだった。
ある晩、芝居から帰って来て、伸子はのどが乾いてたまらなくなった。外套をぬいだばかりで、伸子が、
「お湯をとって来る」
空色ヤカンをとりあげた。
「も
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