bサージの二人の給仕たちは、全く忙しかった。伸子たち数人の日本人のいるタバコの煙のたちこめた室に、夜十時すぎてからサモワールを運びあげ、夜食の茶道具を運び上げて、二つの急な階段を上下したばかりでなかった。注文があればパッサージのどの室へでも正餐の料理を運ばなければならなかったし、一本の鉱泉水のために、もう若くない給仕のボリスが、あら毛の生えた太った頸すじを赭《あか》らめ、額に汗の粒を浮せながらうすよごれたナプキンをふってのぼって来るのに出くわしたりすると、伸子は気の毒な気がしたものだった。廊下のどこかでドアの一つが開けはなされていて、そこから無頓着な男の大声が、
「ダワイ・ナルザーン(ナルザン水をもって来な)」
と叫び、その声の主よりずっと年をとっているボリスの不機嫌な喉声が、昔の召使が主人に対してつかっていたとおりの言葉づかいで、
「スルーシャユ・ス(かしこまりました)」
と答えているのをきくと、伸子は時代錯誤を感じた。かつて人につかわれたものが、人をつかうようになったときの、人使いの荒さを感じさせられた。
三年たって、また、伸子と素子とがパッサージで暮すようになった今、伸子たちの間で海坊主とよばれたボリスはもうパッサージにいなくなっている。洒落ものの、小指に指環をはめて、栗色の美しい髭にこて[#「こて」に傍点]をあて、まき上げているノーソフだけが働いていた。しかし、おしゃれのノーソフは、もう三年前のように、サモワールをもったり、黒い大盆を肩にのせてたりして三階をのぼりおりし、はずむ息でスルーシャユ・スと云わないでもよかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のホテル経営管理委員会は、五ヵ年計画による一つの改善として、パッサージのような内国旅行者のためのホテルでは、宿泊人は茶をのむことも食事も食堂でするようにとりきめた。そのかわり、宿泊人はいつでもホテルの台所へ行って、旅行者がステーションで熱湯をもらって来るように、熱湯をもらえるようになった。
伸子は、この新しいホテル生活の日常的な変化を心から歓迎した。ハルビンからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来るとき、知人がもたせてくれた大きい籐籠から、伸子は、これもハルビンで買った空色エナメルのかかったヤカンをとり出した。底が小さくて、胴のふくらんだ空色エナメルのヤカンは、湯のわきがおそいので下宿の主婦からはよろこばれない品だった。朝と夜、伸子はその空色ヤカンをさげて、台所へお茶のための湯をとりに行った。そのとききっと通らなければならない廊下の一番はずれの小部屋が、従業員たちの休憩所だった。その室の一隅から、廊下をゆっくり通ってゆく伸子の空色ヤカンに赤いかげがうつるかと思うほど、賑やかに飾られた「赤い隅」がつくられた。そして、その室の上に「ホテル・パッサージ細胞」と書いた紙がはり出された。
これらのことは、伸子たちの室をうけもっている掃除婦カーチャの生活にも新しい局面をひらいた。たっぷりした美しい声と、ふくよかな胸をもつ若い母親であるカーチャは、伸子たちの室の床を、柄の長い油雑巾でこすりながら、云った。
「この節は、すっかり暮しが新しくなりましてね、わたしたちの隅でも政治教育《ポリト・グラーモト》がはじまりましたよ」
「それは結構だわ、カーチャ。――あなたにはこと更結構よ。わたしの夫は外交官です、だけれども、わたしは彼の仕事について知りません。そんな風だったら不幸だもの」
カーチャの夫は――彼女の言葉によれば――外交官になるために勉強しているのだそうだった。
カーチャは、ゆたかな胸を波うたせながら油雑巾をつかい、
「全くですよ、女はいつだってとりのこされてしまうんだから」
そして、前歯が一本ぬけている口元で、彼女の働きぶりを見物している伸子に笑いながら、
「教える者のあるうちに学べ」
急ごしらえの格言のようなことを云って、バケツをさげて出て行った。
伸子が住んでいたアストージェンカの建物が直接区の住宅管理委員会に属すようになったとおり、パッサージのホテル経営も、これまでより緊密にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の人民食糧委員会に管理されることになったらしかった。ある朝、お茶の湯をとりに台所へ出かけた伸子は、台所の入口と食堂の入口との中間の廊下へテーブルを出して、そこへ帳簿とソロバンとをそなえつけている若い婦人を見出した。正餐《アベード》に食堂へ行ったとき、白いブラウスをつけ、白いプラトークで髪をつつんでいる彼女は熱心にソロバンを置きながら、サーヴィスされる正餐《アベード》の勘定をしていた。
外部からそういう監督的な立場の婦人が通って来るようになって、ホテルの廊下――従業員休憩室、事務室、食堂、厨房の間を流れていた小ホテルの、のんき
前へ
次へ
全437ページ中380ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング