B
芝居ずきの素子は、腹立たしそうに、残念そうにつぶやいた。
「こんなに見物にもたれこんじゃって――芝居になりっこありゃしない!」
「|観るもの《スペクタークル》でもいいのかもしれないわ。労働組合は、ここの切符だけをくばっているんじゃあないから」
だけれども、やっぱり伸子とすれば「南京虫」の空虚さは居心地わるかった。観客は、「南京虫」へ向けられている諷刺を笑っているつもりかもしれなかった。しかし、五〇年後[#「五〇年後」に傍点]の社会主義社会の青年男女が十度も五ヵ年計画をしあげたのち、南京虫一匹に対してこんなに大仰にさわいで、目玉をむいたり、両腕をつきあげたりするだろうか。現に南京虫にくわれながらたたかっている人々はそうとは意識しない現実からの批判を笑いにこめて、南京虫への諷刺のうちに社会主義の坊ちゃん、嬢ちゃんのおかしさをも笑っていると思わずにいられなかった。
伸子はほとんど笑わず、舞台を見ている。その目の中に、マヤコフスキーの遺骸の靴の底に光っていたへり止めの鋲がきらめいた。「風呂」そして「南京虫」。マヤコフスキーは、自分のこの二つの作品をどう思って舞台の上に観たろう。どんな思いをもって、夜更けのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の道を自分の書斎へ帰ったろう。思いの多い道々に、彼の爪先には益々力がはいり、へり止めの鋲は一層光らせられ――最初のぼんやりした自分への疑問が、段々心のうちにつもって行って、ある瞬間に、否定できない明瞭さで自身の限界が自分に見えたとき――埋葬の夜までもなおいま歩道から来てそこに横わった人の靴裏でもあるかのように、マヤコフスキーの鋲はなまなましく光りを放った。
伸子は、デスクの上に文学新聞をひろげたまま、肱をついた手にかしげている頭を支えて、まだ二重窓は開かれていないホテルの窓のガラス越しに、「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊」の屋上を眺めていた。
この間、この屋上で写真のとりっこをしてたのしんでいる二組の若ものたちがあった。あれから、もう一度、二人づれの青年が屋上にあらわれた。その連中は、何かの書類にはりつける必要でもあったのか、ひどく事務的に、立って、焦点をあわせて、シャッターを切って、そして降りて行った。伸子が、屋上にのぼっている青年たちを見つけたのは、それぎりだった。きっと建物管理委員会が禁じたんだろう。そう素子が推察した。だって、いくら厚いガラスだって、バタバタ、元気な連中にあがって来られたんじゃたまるまいもの。屋上へ出て来るのは、「モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]夕刊」に働いている若者ではなくて、同じ建物の中にある印刷労働者クラブへ出入りする青年たちのようだった。
伸子にすれば、屋上をたのしんでいる若い人たちを遠く高いところから眺めているのもいいこころもちだったし、又きょうのようにガラス屋根をいたわって人影の出ていない屋上を見ているのも気もちよかった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の三つの停車場からは、春の活動のはじまった各地方のコルホーズ協力と見学とのために、工場から、演劇団体から、作家の団体から、毎日何人かずつがグループとなって出発している。伸子のデスクの上にひろげられている文学新聞にも、その記事があり、全露農民作家同盟のアッピールが発表されている。農民作家の団体は、四角四面に書いていた。農民作家の間に、いつからか「|機械化の職場《ツエハー・インダストリザーチー》」という名をもつ一つの集団が出来ていた。そのグループの農民作家たちは、農村の機械化のために宣伝し協力することを建てまえとしていた。春の播種期にそなえて一月から各地で行われた富農《クラーク》の排除を通じて、「機械化の職場」の思いがけない本質があらわされた。「機械化の職場」は、農村の機械化のためにたしかに協力したが、それは、農村がコルホーズになってゆくためにではなく、富農たちが一つの地方で彼らの勢力の下にトラクターを集め使用を独占するために協力[#「協力」に傍点]している事実がわかった。
全露農民作家同盟は、熱心な自己批判を公表した。文学新聞にのっているアッピールは、来るべきメーデーのために、コルホーズの農民通信員からのルポルタージュのコンクールを告げたものだった。
マヤコフスキーは、どうして社会主義を「南京虫」の象徴でとらえなければならなかったろう。
パッサージ・ホテルの内部の暮しかたにあらわれているいろいろな変化をみても、飛躍そのものがリアリスティックだった。
伸子と素子とがはじめてモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]について、窓から降る初雪を眺め、胸をときめかせてクレムリンの時計台がうち出すインターナショナルの一節に耳を傾けた一九二七年の夜、パ
前へ
次へ
全437ページ中379ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング