サの夜の「文学の夕べ」の会場は、いつものとおり超満員であったけれどもいつものような落つきがなく、大講堂の側面のドアは絶えずそっと開いたりしまったりして、人々を出入りさせていた。おおかたの人々は、同じ時刻の九時からはじまった「文学の夕べ」とマヤコフスキーの告別式と、二つの場所の間で、その夜をくらしたのだった。告別式へ来て、伸子は列の中にやっぱり19の電車で来た若い男女の顔を見わけた。
棺の左側に高く一台の照明燈が据えられていて、そこからふりそそぐ強い光線に掠められ、伸子の目の前にあるマヤコフスキーの大きな靴底の鋲は鋭く光りつづけている。最後の最後まで、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の鋪道で磨りへらされ、みがかれていたことを語る光りかたで――。
その光るものを見つめている伸子は、眼玉がこわばって瞬きしにくいような切ない心持になって行った。ヴェルダンのドゥモン要塞で、霜枯れた叢の中に落ちている一つの金の輪――嬰児の円くした唇のように西日をうけて光っていた小さな銃口。限りなく寂しい訴えをもっているその円い小さい金の輪は、伸子の瞳のまわりに、はまりこんで、もう伸子は、戦争という文字を、その金の輪をとおしてでなければ読むことができない者となった。自分では生きることをやめてしまったマヤコフスキー。しかしソヴェトの社会とその人々の生きることをひとしおつよく肯定したマヤコフスキーの硬直した靴の裏に、なお生あるように光っている小さい鉄の三角鋲は、伸子の柔かい胸の肌に、痛みをもって、赤紫のあざ[#「あざ」に傍点]になってうちこまれたようだった。伸子は目の中に涙をうかべながら、再びそろそろ動きはじめた列について棺の裾を通過し、いかめしいマヤコフスキーの顎と額とを瞥見した。列に運ばれて広間の裏廊下から、階段を下りて白い雲のある星空の下に凍っている内庭へ出た。暗い内庭のなかほどに佇んで、出て来た建物をふりかえり、明るい大窓の中をまだ黒く動いている列の影を見たとき、伸子は深い顫慄《せんりつ》におそわれた。伸子は生きているうちは会ったこともないマヤコフスキーの靴の裏から今夜秘密な小さい貴重なおくりものを手のひらのなかにもらって自分はそれをにぎりしめたことを感じるのであった。
九
マヤコフスキーの告別式があってから一週間ばかりのちに、メイエルホリド劇場で、故人の「南京虫」の初演があった。
五〇年後の社会主義の社会では、現在のソヴェト生活の日常につきもののようなわずらわしい南京虫、すなわち官僚主義だの、小市民根性だの、陰謀、利己心だのというあらゆる「害虫」は絶滅されて、わずか一匹の「南京虫」が過去の時代の記念物として、社会主義動物園に飼育されている。段々教室に腰かけた五〇年後の社会主義的青年男女学生は、合唱風におどろいたり、ふき出したり、罵ったりしながら、珍奇で醜悪な過去の棲息物を観察するという舞台だった。
「南京虫」の第四場までは一九二九年現在の反社会主義への諷刺的な場面であり、第五場からが五〇年後の社会主義社会での場面ということになっている。
舞台へ、巨大なつくりものの「南京虫」が大警戒のもとに運搬されて来る。
「南京虫」は大衆の現実のなかで珍しい棲息物であるどころか、云ってみれば、しらみ[#「しらみ」に傍点]と同じ日常の虫だから、スターリングラードのホテルの寝台で伸子をおちおち眠らさなかったぐらいのものだから、五〇年後の社会ではその虫が、たった一匹保存標本として存在しているというような仮定そのものが、観客を笑わせずにおかないのだった。南京虫をきわめて有害なものとして、警戒するおかしみ。その虫のいかがわしい習性についてことこまかに説明する博物教師の科白《せりふ》の諷刺的なおもしろさ。
メイエルホリドの機智とマヤコフスキーの言葉の魔術は、この舞台にもおしみなく発揮された。そして「南京虫」の一場一場は、機械的にわりきられた明快さと、観客の哄笑のうちにすすんでゆくのだった。
伸子と素子とは、ときどき大波のように場内をゆすぶる笑声の中に漂いながら、或いは笑いの波をかいくぐりながら、奇妙なものうさを制しきれなかった。観客の笑いそのものが、伸子に苦しかった。その晩、メイエルホリドの観客席は、まるで笑いのためにそこに来ていて、爆笑を準備しているようだった。ある諷刺的な科白や場面へ来ると、待ちかねていたように、どっと笑った。しかしその数百の笑いは、笑いどよめくという風なたちの笑いかたではなくてどっと笑ってしまうと、それっきりぷつんと笑いの尾はきれてしまう、余韻のない笑いかただった。人生のユーモアがあって、思わず笑う心の笑いではなくて、伸子が感じるままに云えば、それは五ヵ年計画というものによって示される神経反射の一つのようだった
前へ
次へ
全437ページ中378ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング