「出させた。ゴーリキイとロマーシンとはその村で、農民のための雑貨店を開きながら「人間に理性をつぎこむ仕事」を試みたのだった。しかし、二人の外来人に敵意をもつ村の富農のために店に放火され、そのどさくさにまぎれて、包囲されたロマーシンとゴーリキイとは、もうすこしで殺されるところだった。シベリアの流刑地で様々の場合を経験して来ているロマーシンが、ゴーリキイにささやいた。ぴったり背中と背中をくっつけるんだ。このまんまで輪をつっきるんだ。ゴーリキイとロマーシンに好意をもって日ごろ仕事を助けていた貧農のイゾートは、この事件が起る前ヴォルガ河のボートの中で頭をわられて殺された。それは一八〇〇年代終りのことであった。ツァーの時代のことであった。
一九二八年に、富農がコルホーズ化を進行させまいとしてとった手段は、やっぱりそのころとちがわない兇暴さだった。
「話のわかる指導者」ブハーリンの一派に庇護されて、一九二一年このかたソヴェト社会の間で一つの階級にまで育って来た富農に対して「|赤い星《クラースナヤ・ズヴェズダー》」にのったスターリンの論文は「これまでのように、個々の部隊をしめ出し克服する」のではなくて、「階級としてのクラークを絶滅させる新しい政策へ転換」したことの宣言であった。「階級としてのクラークをしめ出すためには、この階級の反抗を、公然たる戦いにおいて撃破し、彼らの生存と発展の生産上の諸源泉(土地の自由な使用、生産用具、土地の賃貸借、労働雇傭の権利等々)を彼らから剥奪してしまうことが必要である。これが即ち、階級としてのクラークを絶滅する政策への転換である」
この論文は、新しくつもったばかりの雪の匂いが、きびしい寒気とすがすがしさとで人々の顔をうつ感じだった。伸子が帰ってきたとき、狩人広場《アホートヌイ・リャード》から消えていたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の露天商人――闇市の、その根が全国的にひきぬかれようとしている。「生産の諸源泉を彼らから剥奪する」ほかに何と解釈しようもないこの決定的な表現は、それが必ず実現されるものであることを伸子にも告げるのだった。伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てからの経験では、スターリンの名で何ごとかが発表された場合、それはもう既に実現されてしまったことか、さもなければ、これから必ず実現されるべき何ごとかなのだった。そして、この論文に示されているのは、まさに、一つの画期的な決意であった。ソヴェト社会の確保と建設のために一層はっきりとした方向にそのハンドルがしっかり握られたことを告げる。――
ロンドンで行われる軍縮[#「軍縮」に傍点]会議は、とことんのところではソヴェト同盟の存在をめぐっての軍備拡充のうちあわせのようなものだったから、ソヴェトの人々が自身の社会を護るために、その社会を内部から崩壊させようとしている階級を、とりのける決意をしたことは当然だった。
雪につつまれた厳冬《マローズ》のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]が新しい雪の匂いよりもっと新鮮できつい雪の匂いをかいだように感じたのは、スターリンの論文がもっている理論の明確さのせいばかりではなかった。論文を支えている階級的な決意の動かしがたさが、その身はもとより富農ではなく、日々モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の工場や経営で働いているすべての人々にまでなまなましく迫って自分を調べなおさずにいられないこころもちにさせた。そのころ、誰かが誰かと会って「|読みましたか《チターリ》?」ときけば、それは「赤い星」の論文のことであった。
伸子がパリにいた間に、素子はオリガ・ペトローヴァという、語学上の相談あいてになってくれる女友達を見出した。素子は一週に一度、数時間ずつ彼女の部屋で過すのだった。オリガの住んでいるのはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の町はずれに近いところで、まだ五ヵ年計画の都市計画がそこまではのびて来ない昔風な大きな菩提樹のかげの門の中だった。古びたロシア風の丸木造りで小さい家の下には誰も住んでいず、二階に、三十をいくつか出ている年ごろのオリガが石油コンロ一つ、ブリキのやかん[#「やかん」に傍点]一つという世帯道具で暮していた。食事は、つとめ先の組合食堂ですますのだった。
素子の勉強がすんだころ、散歩がてらに伸子もそこへ行くことがあった。
オリガの故郷は、ミンスク附近のどこかの村だった。田舎には母親と弟妹たちがいるらしくて、弟の四つばかりになる息子を、オリガは「|私の英雄《モイ・ゲロイ》」とよんで、可愛がっているのだった。ソヴェトでは、まだ珍しいその甥のスナップ写真が伸子たちに見せられた。
「あなたがたに、ほんとうのロシアの田舎というものを見せてあげたい!」
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