フ勤人生活になれたオリガの丸っこくて事務的な頬と眼の中に、あこがれが浮んだ。
「あなたがたがどんなに夢中になるか。わたしによくわかる!」
シガレット・ケースをあけてオリガにもすすめながら素子が、「外国人」である自分を自分でからかうように、
「わたしたちだって、いくらかは『ロシアの田舎』を見ていますよ」
と云った。
「すくなくとも、タガンローグの蠅は、ワタシの鼻のあたまを知っている」
アゾフ海に向って下り坂になっている大通りのはずれに公園をもっているタガンローグの町は、チェホフの生れたところだった。タガンローグの町に唯一のチェホフ博物館があって、そこにはチェホフに直接関係があってもなくても、とにかく町の住人たちにとって見馴れないもの、あるいは日常生活に用のないものは、みんなもって行って並べることにしてあるらしかった。昔、アイヌがイコロとよんで、熊の皮や鰊《にしん》の大量と交換に日本人からあてがわれていた朱塗蒔絵大椀や貝桶が、日本美術品として陳列されていた。伸子と素子とは、タガンローグの住人にとってめずらしい二人の日本婦人として子供に見物されながら町を歩き、メトロポリタンという堂々とした名前のホテルに一晩泊った。
田舎の町やホテル[#「ホテル」に傍点]の面白さ。――だが、タガンローグの町で、チェホフが一日じゅう蠅をつかまえて暮している退屈な男を主人公にして小説をかいたわけだった。その蠅のひどいこと! 少しおおげさに云えば、伸子と素子とは蠅をかきわけて食堂《ストローヴァヤ》のテーブルにつき、アゾフ海名物の魚スープといっしょに蠅をのみこまないためには、絶えずスプーンを保護して左手を働かせていなければならない程だった。
「タガンローグの五ヵ年計画には、必ずあの蠅退治がはいっているだろうと思いますね」
「わたしたちの村では清潔ですよ」
オリガが、ほこらしげに、単純な満足で目を輝かした。
「村のぐるりに森があって、森は素晴らしいんです。大抵の家で手入れのいい乳牛をかっていてね――クリームで煮たキノコの味! あなたがたが、あすこを見たら! 彼らは[#「彼らは」に傍点]、生活している[#「生活している」に傍点]んです」
オリガのむき出しな四角い部屋の一方に寝台があり、その反対側の壁によせておかれているテーブルの上に三つのコップが出ている。三人は茶をのみながら話しているのだったが、伸子はオリガの話しかたをきいていて彼女の郷愁と村自慢にしみとおっているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活の独特さを感じた。オリガの善良な灰色の瞳は、森や耕地の景色をそっくりそのまま浮べているような表情だった。いまにも、村の家の暮しの物語があふれて出そうだった。けれどもオリガは決して必要以上に田舎の家族についておしゃべりでなかった。くりかえして、伸子たちがあれを見たら! と村の自然のゆたかさを語りながら、彼女は決して、わたしの田舎へいっしょに行きましょう、とは云わない。そこにモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の節度があった。オリガがまじめな勤め人であり、伸子たちが私的にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に暮している外国人である以上、その節度は当然であり、いわば、それがソヴェトの秩序でもあるのだった。
「赤い星」の論文について「|読みましたか《チターリ》?」と伸子にきいた最初のひとが、このオリガだった。
「彼は、非常に決定的に書いていると思います」
伸子は、そう答えた。
「ええ。それは全くね」
「わたしには、読んでわかる範囲にしかわかっていないんだけれども――でも大きな恐慌がおこっていることだけはたしかよ」
「恐慌《パーニカ》?」
意外そうに、同時に突然何かの心配がおこったような眼でオリガが伸子を見た。
「どんな《カカーヤ》恐慌《パーニカ》?」
「もちろん、富農のところによ。それは、あきらかでしょう? それから、すべての外国新聞の通信に。――見ていらっしゃい。あのひとたちは『五日週間』についてさえ強制労働が全住民へ拡大したってかいたんです、わたしはパリでそれを読んだわ」
オリガは非常に考えぶかく、自分のひとことひとことに責任をとっているようにつぶやいた。
「それが彼らの習慣なんです」
「オリガ・ペトローヴァ、わたし、思うとおりを云って、いいでしょうか」
「どうぞ《パジャーリスタ》」
パというところで一旦区切って、オリガは力を入れてジャーリスタと云った。
「わたしは、富農を気の毒だと思えないんです、それは、わたしが田舎を知らないからじゃないわ。彼らは、もう十分若い指導員たちを殺したし、牛や豚も殺しました」
集団農場化が、ソヴェト権力としてあとへひかない方針だとわかると、それをよろこばない村々で、破壊的な家畜殺しがはやった。
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