轤フ広場に出ていた露店商人が消えたから、雪降りの歩道に物売りが立ち並んでいて、漬水の凍った塩漬け胡瓜《きゅうり》入りのバケツに雪花が舞いこむ市場風景はなくなった。そのかわり、ことしのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の雪は、五ヵ年計画を四年で! という赤いプラカートの上に降り、国立銀行《ゴスバンク》の建物の高い軒にはり出されている「われわれは《ウ・ナス》|清掃を行っている《チーストカ・イジョット》」という機構清掃のプラカートをかすめて降っている。
ソヴェト全機構にわたって官僚主義の批判は、伸子たちのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]暮しのはじめから絶えず行われていた。漫画雑誌の「鰐《クロコディール》」は、いつも官僚主義を諷刺していた。ビュロクラティズムという言葉は、伸子がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で最も早くおぼえた用語の一つだった。五ヵ年計画の実行が進んで、官僚主義の害悪は、あらゆる職場の大衆からきびしく指摘されるようになった。ボルシェビキがまだ非合法の政党であったころ、検挙されてひそかに同志を売った者、将校だの憲兵、警察関係の非人民的な職業についていた前歴をかくしたり、偽ったりして、現在政権をもっているロシア共産党の内部にもぐりこんでいる者。いかがわしい分子も、ソヴェト生産や官庁の諸機構に官僚主義がはびこっていさえすれば、比較的安全に、温存されることができた。ブハーリンが国際的な指導者の一人であるという盲目的な信頼の多い立場を利用して、自分にゆだねられていたコミンターンの機関を専擅しつづけた。その事実はすべての人の前にばくろされた。彼は反社会主義理論である富農の社会主義化、世界資本主義の再編成された安定論を主張して、迫る第二次大戦の危険――この地球から社会主義を絶滅させようとする企図――への防衛をおくらせようとした。ブハーリンは各国の共産党の中に彼の連絡員をもっていた。アメリカにもドイツにもフランスにも。それらの国では、党の機関を握っているブハーリン派が上から下までの組織の力をつかって、少数の人々によって提起される正当な情勢の判断を、無視し、圧迫し、機関の名によって誹謗しつづけた。
官僚主義こそ、不潔分子のかくれ場所である。官僚主義は、反革命の最も居心地いい温床である。詩人のマヤコフスキーが、官僚主義排撃をテーマにした戯曲をかいているという記事が新聞に出たりしている。
伸子は興味をもって「プラウダ」や「コムソモーリスカヤ・プラウダ」の清掃《チーストカ》についての記事をよむのだった。ある経営で清掃を行うときには、それを公告する義務があった。ウ・ナス・チーストカ・イジョット、と。その経営のそとの大衆から、不潔分子についての責任ある投書が許された。そこには様々の重大な発覚があり、また滑稽で素朴なばくろもあった。職場の全員があつまって清掃大会が開かれる。その席上、日ごろ官僚的なことでみんなからきらわれている技師ゴルレコフが、妻があるにもかかわらず、婦人労働者のムーシャを口説いて、はねつけられ、ムーシャの友達のマルーハをくどいて彼女からも、はねつけられた、彼の自己批判を求めた、というような例も報告されていた。そういう記事は、経営の中の労働通信員から送られて来るのだった。
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の粉雪の降る空の下に、ウ・ナス・チーストカ・イジョットと白字を浮き立たせている赤いプラカート。それを、無心に見る通行人というものはない。
国立銀行《ゴスバンク》の軒にはりめぐらされた鮮やかな清掃公告のプラカートは、やがて協同組合本部の高い蛇腹《じゃばら》のまわりにもかかげられた。
ことしのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の雪景色には例年にない意気ごみがある。伸子は自分の鼓動も、そのテンポにひき入れられるような共感を感じた。ソヴェトは、たしかに一つの偉大な事業のために真剣になっている。――
そういう雪の日の或る午後のことだった。伸子はアストージェンカの下宿のデスクの前で、これから書かなければならない一通の手紙について思案していた。
その手紙をかき出すについて、まず伸子は、癇癪《かんしゃく》をしずめなければならないと考えているところだった。文明社の社長、木下徹は、案外な男だった。素子があのとき駒沢の家の客間で、彼に警告した通りになった。伸子が文明社からうけとれる金額は一万円までの約束であった。その約束は木下との間にかわされていて、伸子はモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ来てから現在までに半分ばかりつかった。夏の終りに伸子はパリから手紙をかいて、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へまた一定額の金を送っておいてくれるようにたのんだ。帰ってみると、
前へ
次へ
全437ページ中361ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング