k話を読んだとき、伸子は、いつまでも忘れることの出来ない印象をうけた。弟である作家がそう云ったのは、震災火災であれだけの人死にをみれば、生きていることのよさが身にしみて、自分から命をすてるようなことは考えなかったろうという意味かもしれなかった。この弟である作家は、日常生活もその文学の出発も兄である武島裕吉が西欧のヒューマニズムに立っているのとは対照的で、日本式な花柳放蕩のうちにも仏心の多情を肯定するという人生態度であった。彼は兄の死を敗北として、事件当時から肯定していなかった。震災を通りぬければ死になんぞしないですんだんだ、という言葉を、きわめて異常に利用された天災ののちの空気のなかで、そこに生じたのはただの天災であったように云われるのをきくと、伸子は実に妙な気がした。武島裕吉が死んだ三ヵ月のちにおこった関東地方の大震災では、混乱に乗じて各地に大量の朝鮮人虐殺がおこり、亀戸署では平沢計七のほか九名の労働運動者が官憲によって殺され、屍《しかばね》を荒川放水路に遺棄された。アナーキストの首領であった大杉栄・伊藤野枝夫妻と六歳だかの甥宗一の三人が、憲兵隊で甘粕大尉に扼殺《やくさつ》され、古井戸へ投げこまれたのも、このときだった。震災を機会に政府は永続する残酷な左翼弾圧の方針を確立した。その空気は、左翼について知識も乏しく、何の関係を持たない伸子にさえも、野蛮な権力は、いつ自分の気に入らない者の生命をおびやかすか分らないという危険を感じさせた。弟である作家の言葉は、そういう当時の憤りには無関心に、個人個人の生物的な生の肯定に安住していられるひとのひびきがあった。その人が意識していないところに、日本の多数の人に特有の「なにもいっとき」風の処世態度が感じられた。
 佃と離婚するばかりの頃で、伸子の一日一刻のうちには、生に対して主動的であろうとする欲求がたぎっていた。すべての人が、この弟である作家の人生態度にしたがって、自分としての内面の動機を外界の事情と和解させつつ、そこに臨機のモラルを見出してゆけるなら、生きるということは何と楽だろう。伸子は、もとより自分だって生きる組だ、と思った。けれども、その生きかたは、弟である作家のようにでは、なく。――
 武島裕吉の死に対して、ああ云ったその作家が、蕗子の弟である画学生の死を批評したらば、彼は何というだろう。いまモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の下宿で、伸子は湯加減をみるためにガス湯わかしの匂いがかすかにする浴室へ立って行きながら考え沈むのだった。ふくよかに、おっとりして、赤い小さい唇をしていた蕗子の生のなかにもこうして一つの切実な思いからの死が包括された。伸子が自分の生涯のなかに保の死をうけいれたように。蕗子にとって弟の死は、いつも彼女の前に立つだろう、なぜなら、その青年は自分ののりこせないものから逃避したのではなくて、そこへ身を投げ入れたのであったから。
 石鹸の泡を体じゅうに立てこすりながら伸子は尾を長くひく考えの継続から自由になれなかった。ある立場に自分を据え、その立場によりたっていろいろ議論することに熱中している人たちと、その議論によって考えさせられ、自分をきびしく吟味し、生命の価値さえ自分の責任で決定してゆこうとする正直な、ごまかしのない人々の存在。――伸子は、自分たちは、はたとの関係においてどんな風に生きて来ているかと思ってみずにいられなかった。二人の友人である河野ウメ子は、おそい結婚――どこか偶然めいた不安を感じさせる結婚だが、その結婚をすることに心をきめた、と云ってよこしている。あいてのひとは、哲学者であり、ウメ子の小説をよんで、彼女の文学を成長させてやりたいと云っている人だとのことだった。お二人にお目にかかることもなくなってまる二年ちかくになります。このごろは私も自分ひとりの暮しの中で何となし新しく展開するものをもとめるようになって来て居ります。――
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で暮していた日ごろ、それからまたパリへ行って生活していた日々、伸子はウメ子にときどき便りはかいていた。だけれども、ウメ子に会わなくなってもう二年たったという風に互の友情を感じたことがあったろうか。

        四

 十二月の雪がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に降りはじめた。全市が美しい白と黒の雪景色にかわった。アストージェンカの広場からはじまっている並木道の遠い見とおしの上に、ひとすじの黒いふみつけ道が出来た。
 雪は毎日根気よく降りしきり、人々は惜しげなく雪の白さをよごして活動し、陽気で混雑したモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の冬がはじまった。
 ことしの雪景色は、去年とちがった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のあちらこち
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