烽ヘ来ていないで、社名での親展書が伸子あてに着いていた。社長の木下が去年の総選挙に失敗して社の経営に大損害を来したから、伸子への送金は中止のやむなきに至った。右の事情|何卒《なにとぞ》あしからず御承知下さい。そして、いつも小切手に書かれていた書体で、木下の弟である会計係の署名がされているのだった。
伸子たちのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]滞在も、あらまし三年ぐらいと予定されていたことだった。伸子が、帰って来たとき、素子は、大体、ことしいっぱいというところかな、と云った。
伸子は、ぼんやり云い出されたその帰国の考えに賛成もしず、不賛成もあらわしていないのだったが、木下が、自身で責任を負った金を送れないというときになって、会計係の弟に事務一片の手紙を書かせてすましていることが不愉快だった。体裁やで小心な木下の性格があらわれている。その手紙に添えて、会計から送金明細書が送りつけられているのも、伸子をいやな気持にした。その明細書によると伸子が三千幾円かを借りこしていることになっているのだった。
伸子はデスクのわきにある一冊の綜合雑誌を手にとった。その頁のあちこちを開きながら、伸子は実際的に考えているのだった。現在、どの位の金があるかわからないが、金が送られなくなったからと云って、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいたいだけ居ることを止めようとは思えなかった。ウィーンで買ったあの外套を売ったって――伸子はライラック色の表に、格子の裏をつけたトレンチ・コートを考えた。あの薄色のドレッシーな短靴を売ったって――絹の靴下と靴を売れば、質素な伸子たちのモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活の三ヵ月はもてた。そんなことをしなくても、もしかしたら東洋語学校で日本文学の講義ぐらい、できるようになるかもしれない――
考えながら雑誌をいじっていた伸子は、ふと、そこにのせられている一つの文芸評論に目をひかれた。相川良之介の生涯と文学とにふれて書かれている評論であった。その主題が、伸子の関心をひいた。これまで一度もその名を見たことのない石田重吉というその評論の筆者は、文章のはじめに書いていた。この作家の「透徹した理智の世界」に、私は漠然、繊細な神経と人生に対する冷眼を感じただけであった、と。伸子は、相川良之介について自分が感じたように、いわゆる野暮に感じる人もいたことをおもしろく思った。「私は『余りにも人工的な、文人的な』という漠然とした印象より外のものを多く持っていなかった」ところが「一九二七年度に著しかったこの『文人』の切迫した羽搏きとその結論としての自殺は」この評論の筆者が相川良之介を見るめを変えさせた。石田重吉は、率直な心をあらわして、私はこの時、此の自殺が私を感傷的にしたのではないかと一応考えてみたと書いている。だが、新しく厳粛に相川良之介を見直したとき、そこには相川良之介が、一生脱ぐことの出来なかった重い鎧を力一杯支えながら、不安に閉された必死の闘いを見せているのだった。過渡時代の影を痛々しく語りつつ相川良之介を襲って来る必然的な結論に慟哭《どうこく》していることが発見されたとして、石田重吉は、相川良之介の生活と文学とがもっていた矛盾の諸相を追究しているのだった。
フリーチェの言葉が、今私の前にある、と書いているところや、明瞭に資本主義社会とそのインテリゲンチアの矛盾として相川良之介の悲劇にとりくんでいるところをみれば、この評論の筆者である石田重吉という青年は――伸子は好奇心から、何心なく論文の終りをめくって、そこにのっている、あまりゆたかな生活ではなさそうな、カラーなしの制服姿の筆者の写真を見、私は自分のことについて多くを語りたくない、と結ばれている簡単な東大経済学部在学中という経歴をよんだのだったが――プロレタリア文学運動について無縁だとは思われなかった。けれども、この相川良之介についての評論は、伸子が最近の二三年の間によんだ、どの文芸評論ともちがった趣をたたえていた。若々しい真摯《しんし》さでひた押しに構成されている推論とともに情感を惜しまず、率直に人生と文学に関する自分の思いの一部をもこめて語っている文章からは、精神の強靱さと、そういう精神のもっているつやも閃き出ている。石田重吉という青年が、評論の強固な論理のおしすすめのうちに自身の若々しさを流露させていることは、伸子に珍しかった。
伸子は、その評論につりこまれた。文明社へかく手紙のことを暫く忘れた。
「――ぶこ!」
「え?」
「なにしてる」
「――うん」
素子が、しばらくすると立って来て、伸子のデスクをのぞきこんだ。
「何だ! 手紙、書いてたんじゃないのか。いやにひっそりしているから、蜂谷君へラヴ・レターでも書いてるのかと思った」
伸
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