、な喉声といっしょに伸子をつよく抱擁して背骨がくじけそうにしめつけた。そして、あとを向かず車室を出て行った。
 伸子は、眠りはじめた。くたびれきって、同時に云いようのない自身からの解放の感じにつつまれながら。フランスとドイツの国境を伸子は夢中ですぎた。ベルリンの数時間は、伸子が眠りと眠りとの間に目をあいて、たべて、日本語を話して、ファイバーのスーツ・ケースを買った数時間であった。ネオンが夜空に走っていた。更に東へ、東へ。大きい窓をもった国際列車の車室のなかでは座席の隅の外套かけで質素なイギリス製の茶色外套が夜から朝へ、朝から昼へと無言に揺れ、その下で、伸子は眠りつづけて来たのだった。
 眠りたりて新鮮になった伸子の感覚の前を、国境の伐採地帯がゆるやかに過ぎた。数十ヤードの幅で、自然にはないくっきりとした規則正しさで樅の原始林がきりひらかれている。彼方に、北の国の地平線がある。遠くに、木をくみたててつくった哨所が見えている。
 しばらくの間樅林に沿って走って来た列車は、車室のなかへまで緑っぽい光線がさしこんで来る林のそばで、一時停車した。そこで一分間ほど停っていて、また動き出した。列車の速力は一層おちていて、機関車はあえぎあえぎ、ゆっくり草地にかかっている。まぎらわしいというところの一点もない風景がそこにあった。草地も、それを左右からふちどっている樅林のきりそろえられた直線の出口にも。人気ない、北方の自然のうちに、約束がきめられてあって、どんな信号も人影もないのに、列車が約束にしたがってある地点で停り、改めて速度をきめ、そして一定の地点を通過するとまたそこで停る。その行程、その小停止、小発進は、不思議に伸子の心をゆすった。ヨーロッパで、伸子はいくつもの国境を通過した。あるところで、国境は彼女にとって、そこから、役に立たなくなった数箇の銀貨と、それに代って食堂車の真白いテーブル・クローズのはじに並べられた、別の銀貨の数片としてあらわれた。それらのところにはいつも気ぜわしい人々があった。屋根と屋根との間に、国境があった。
 こんなにひろく無人で、樅林と草地と地平線しかない地帯、その地点をこうして列車は、儀式をもってのろのろとすぎつつある。機関車の重苦しいひと喘ぎごとに、旧いヨーロッパはうしろになる。前方から新しい土地、ソヴェト・ロシアがひろがって来る。きりひらかれた草地の上で樅林の右側の出口が緑の壁のようになって遠ざかった。左側の樅の林の入口が近くなって来る。伸子は、窓に向って立ったままいつの間にかネッカチーフの前で握りあわせていた両手をきつく胸におしあてた。伸子は、ひびきとして感じたのだった、舞台がまわる、と。――その舞台を選択してかえって来ている自分。パリをはなれて来た自分。その自分というものが確信されるのだった。
 ストルプツェの国境駅についたとき、北方の夜の木造建物の中は、赤っぽい電燈にてらされていた。粗末な板張りの国境荷物検査所。白樺板の間仕切りの上に「五日週間《ピャチ・ドニエフカ》」とはり紙されている。「五ヵ年計画を四年で!」とかいた発電所のポスターがある。粗末な机、粗末な床几《しょうぎ》。すべては粗末で無骨だが、荒けずりなその建物に漂っている木の匂いも、そこに働いている女のプラトークで頭をつつんでいる姿も、すべては他のどの国の、どの国境駅にもなかったものだ。ここにロシアがあった。七ヵ月前ここを通ったときには、伸子の知らなかった建設のスローガンが新しく響いているソヴェト同盟の国境駅があるのだった。
 両手にさげて運んで来た手荷物を、体ごと検査所の台の上におろしたとき、伸子は思わず、
「とうとう《ナコニエーツ》!」
と云った。
「|帰って《ダモイ》|来ました《プリィエーハラ》!」
 水にぬれると紫インクのように変化して消えない鉛筆を手にして、偶然伸子が立った荷物置台の前にいた係りの若い金色の髪の男が快活に訊いた。
「どこから来たんです?」
「|パリから《イズ・パリージャ》」
 パリから――? 伸子は旧いヨーロッパから帰って来たところだった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいた間の伸子は知らなかった自分の動揺から、一つの選択から帰って来たところなのだった。

        二

 素子の下宿の部屋が、かわっていた。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]じゅうの並木の若芽がまだ尖がった緑の点々だった頃、伸子が旅立ちの仕度に、灰色アンゴラのカラーを自分で合外套の襟に縫いつけていたのは、ルケアーノフのクワルティーラの裏側の部屋だった。モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学病院を退院して、伸子は、たった一つの窓の幅だけに細長くつくられているその素子の部屋へ帰って来た。一つきりの窓は建物の内庭に面し
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