I谷さんはおいででしょうか」
「ええ、ええ、おいでですよ。彼はすこし工合がわるいようです、ゆうべも、けさも食事をなさいませんでしたよ」
いまは、どうしているかしら、という風に下宿の未亡人は、先にたって階段ぐちの廊下の右手にある蜂谷良作の室をたたいた。
「おはいり」
ぐったりした蜂谷の声だった。
「マドモアゼル・サッサですよ」
戸口に伸子と並んで立って寝台によこになっている蜂谷を見、茶色のエプロンをかけた未亡人は頭をふって戻って行った。
「どうなすったの?」
伸子は寝台に向ってふたあしみあしすすみよった。
「かぜ?」
「――どうしたんだか、わからない」
「きのうから?」
枕につけている頭で、蜂谷はこっくりするようにした。彼のその頭の髪が、いかにもきちんとととのえられていて、きのうから気分をわるくして寝床にいる男のようでなかった。そう気がついてみると、胸から下へ毛布をかけてねている蜂谷のパジャマも、うすいクリーム色にグリーン縞の洗濯したてのさっぱりしたものだった。とりちらされた寝床にいる彼を見るよりも、それは目に楽であるけれど、伸子は何となし瞬きをした。
「熱がでたの?」
「熱はないんだろう」
行儀よい姿で、枕の上からいつもの彼の、額に横じわをよせて眉をしかめるような見かたで自分を見つめている蜂谷の顔を眺めているうちに、伸子の気持は、女らしい母親めいたあたたかさで柔らいで来た。煖炉のよこから質素な椅子をもって来て、伸子は蜂谷のベッドのわきにかけた。
「工合がよくなければ、早くちゃんとしなくちゃ」
「うん」
「ここのマダム、誰か、ちゃんとしたお医者を知っていないかしら」
磯崎恭介が歯をぬいたばかりで敗血症になり、一晩のうちに死んでから、伸子は行きずりのパリの医者のすべてに信用がもてないのだった。
「もしかしたら、ベルネのうちできいて来てあげましょうか。――亀田さんのところでも知っているかもしれない」
蜂谷は、こざっぱりしたパジャマの中で、胸がつまって息がほそくしか通わないような声を出した。
「いいんだ、伸子さん」
「ほんとに、放っといていいの?」
うなずくといっしょに、蜂谷は強いひと息を内へ引いた。
「僕は、きっと佐々さんは来てくれると思っていたんだ」
涙の出ないすすり泣きのようなものが、枕についている蜂谷の顔を走った。
「佐々さん、僕は苦しいんだ」
片手をつかまえられたまま、伸子は、蜂谷の体のどこかが工合わるくて苦しいという意味と、二人の間にある緊張が苦しいという意味とを、ごっちゃにうけとった。
「伸子さんがいま入って来て、僕を見たときの、あんな優しさ」
伸子の手をはなして、蜂谷は、小さい子供がやるように、両方の腕を伸子に向っていっぱいにのばした。
「僕はくるしいんだ、伸子さん」
いつの間にか伸子は椅子から立ちあがっていた。そして、首をかしげ、目鼻だちのぱらりとした顔の上に不思議なかがやきを浮べながら、黙って、まじめに枕についている蜂谷を見おろした。いつ、靴がぬがれたとも知れず、伸子の体が、軽く、なめらかに、蜂谷の寝台のかけものの下にすべりこんだ、厳粛な、そしてやさしい表情で蜂谷を見つめたまま。――
シーツごしに蜂谷の全身がふるえ、てのひらいっぱいの力が、伸子の背中を撫でおろした。それと同時に、伸子は、破れたような一つの声をきいた。
「ああ、伸子さんは、すっかりきもの[#「きもの」に傍点]を着ている!」
すっかりきものを着ている――? 何のことだろう。すっかりきものをきている[#「すっかりきものをきている」に傍点]。…………
伸子は、そのかけものの下へすべりこんだと同じ軽さとしなやかさで、いつの間にか蜂谷の寝台からぬけ出た。そして、そばの椅子につかまった。蜂谷から目をはなさず。
「なんてひとだろう! そんなに僕を苦しめなくたっていいじゃないか」
伸子は蜂谷を苦しめようと思ったことは一度もない。だけれども、すっかりきものを着ていない[#「すっかりきものを着ていない」に傍点]自分というものは、伸子に考えられない。
「僕ははじめからよくわかっているんだ、僕が佐々さんを愛しているように愛していてはくれないんだ……だからって、侮辱しなくたっていい」
侮辱――? それも伸子におぼえのあることではない。
「こっちへ来て」
そういう蜂谷の顔は、伸子に見なれないものだった。
「…………」
反対に伸子は椅子のむこう側にまわって、寝台と自分が立っているところとの距離を大きくした。
「ね、来て」
「だめ」
混乱して、かすれた伸子の声だった。
「どうして?」
「だって……ちがうんだもの」
「何が」
「――タワーリシチじゃないもの」
むっくり、蜂谷の上体が寝台で起きあがった。
「じゃ、タワーリシチなら、君にはどんな
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