jでもいいわけか」
「どうしてそういうことになるのかしら……」
まだすっかり自分をとり戻していない伸子が、不自然にゆっくりした口調で反問した。
「だって――そういうわけでしょう」
「わたしはコロンタイストではないわ」
「僕は君にとってタワーリシチじゃないってわけなのか」
「それはそうじゃないの」
伸子の答えは抵抗しがたくものやわらかで、同時にはっきりしていた。伸子は急に自覚しはじめるのだった。自分でさえ思いがけずに云ったタワーリシチであるということと、そうでないということの区別を説明することは、何とむずかしいことだろうか。と蜂谷良作も予期しない瞬間に、感情の焦点を移されたようだった。彼は壁にもたれて立っている伸子をめずらしいものをしらべるように、眺めた。
「じゃ、吉見素子は、どうなんだ、佐々さんにとって。――彼女は、同志なのか」
しばらく考えていて、伸子は、答えた。
「そうだと云えると思うわ――あなたよりも」
蜂谷はおきあがっていた上体を倒して枕の上に頭をおとした。伸子は、やがて外套をきた。そして、パジャマの両腕を目の上にさしかわして顔を覆っている蜂谷を寝台の中にのこして、廊下へ出た。
十七
翌朝、ベルネの家の朝飯が終って、伸子が二階へあがろうとしているところへ、蜂谷良作が来た。
彼は、伸子を見ると、
「きのうはほんとに失敬した」
手をさし出した。
「おこって、もうパリを立つ仕度でもはじめているんじゃないかと思った」
伸子は、だまったまま眼をしばたたいた。
「すこし歩きましょう、僕はどうしても、きみにわかっておいて貰わなければならないことがある」
「――だって、病気は?」
「かまわない――いいんです」
雨あがりの快晴で、ベルネの家の落葉した庭も初冬の趣をふかめた。伸子と蜂谷とは、クラマールの人々がそれぞれに働いている午前の街なかをさけて、畑へ出てから森へ向う道をえらんだ。
「僕はあれから、ずっと考えていて、やっとわかったことがある。僕は、佐々さんというひとの本質を、実はきのうまでちっとも理解していなかったんだ。そういうことが、つくづくわかった」
伸子は、三四間さきの、枯れた草道の上を見たまま歩きつづけた。
「もう決して、あんな陳腐な思いちがいなんかしない。こんどこそ、よくわかった。伸子さん、許してくれるでしょう」
たやすく口のきけないのは、伸子も自分がわるかったと考えているからであった。きのうは、あれから帰って来て、伸子も起きていられなかった。体の下で揺れているような寝床の中で、伸子は自分への思いがけなさを鎮めかねた。どうしようとして伸子は、蜂谷の寝台のかけものの間へはいったろう。自分に、はっきり思い出されるのは、枕の上にある蜂谷の顔を見まもっているうちに、伸子の気持をやさしく、やさしくみたした不思議な明るさ、透明の感じだけだった。それは愛のこころもちに似ていた。伸子は、これまで一度も彼に対して、あれほど自分を忘れた状態になったことはない。
蜂谷は、伸子の動作の意味をとりちがえた。それは二人にとって、ばつのわるいことだった。けれども、伸子は、このことではむしろ自分がわるいと認めることができた。男であり、考えかたや感じかたの大部分が常識的である蜂谷に、伸子があのときそうであったような状態――全身一つの光ったものになって、肉体が昇華されてしまっているようなあんな状態が、かんちがえされたのは無理もない。だけれども、あれが蜂谷のかんちがえだけだったと云えるのだろうか。蜂谷は伸子より率直に、伸子を光りもののようにした欲望を、ありのままに解釈したのではなかったろうか。
自分へのおどろきとともに、伸子は自分自身のわからなさへ、わけ入った。人間のこころの不思議さ。あのとき、欲望を欲望として自覚していなかった伸子が、そういうものとして行動したことを、伸子はやっぱり自分に許すしかなかった。でも、あのタワーリシチ、という言葉。――考えれば考えるほど伸子を考えこませる言葉――伸子の欲望とともに自覚されない奥底に育っていて、あのとっさ[#「とっさ」に傍点]に、動かしがたく作用したこのひとこと。――
これらはどれも、みんな伸子自身にとって不意うちだった。だれをどうとがめるよりも、蜂谷と自分との間に起って、そのどちらをもはねとばした電撃のあとを、伸子はびっくりして見直しているのだった。
伸子は歩きながら、いつもより疲れの感じられる声で蜂谷に云った。
「わたしも、ごめんなさい」
「僕は、伸子さんがそんな風にいうのは、いやだ。伸子さんてひとは、僕なんぞからみると、おどろくほどヒューマニスティックなんだ。僕を心から可哀そうに思って、きみは、あんなにやさしくなっていたのに――僕が全く野卑だったんだ」
自分に対して
前へ
次へ
全437ページ中347ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング