ノちぎって行った。舞台にふる紙雪のような手紙のきれは、伸子の手に掬《すく》われ、指の間からチラチラと寝台のかけものの上におとされる。また掬われ、またおとされ、手紙のきれは伸子の心に、初冬のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の街の上に、そして、アストージェンカのかし間の、一つきりしかない内庭に面した窓にふるのだった。一つしかない窓いっぱいにデスクがおかれている。ダッタン人の男の外着のような太い縞の室内着をきた素子が、そこに向ってかけている。パイプをくわえているだろう。刈上げたかぼそいぼんのくぼを見せ、厚ぼったい部屋着が、大人のかり着めいて見えるなで肩で――。彼女が送って来た九十九円七十五銭の為替と、それをもらってよろこんだ伸子が、素子にかいた下手ながら愉しい絵入りの手紙が思い出された。すすり泣きにかわりそうなふるえが伸子をつらぬいて走った。伸子のパリの生活は、素子をだましていることになるのだろうか。
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へかく手紙から伸子は、最近おこっている蜂谷良作とのふたしかな感覚のひきあいについて省略している。それが一つのうそであるというならば、伸子は素子に対して正直ではなくなっている。けれども、三十歳になっている一人の女として、素子の立ちいらないどんな感情の小道も経験してはいけないとされても、それは伸子に出来ないことだった。佐々の家のものがみんなでロンドンにいたことで、伸子のロンドンでの生活感情の全部が素子に確保されていたと思うなら、素子はひとの心というものを知らなすぎる。利根亮輔の、人生と学問との上に機智をたのしんでいる態度に、伸子が多くの批評をもったからと云って、それが伸子の意識の底にどんな地位も彼が占めなかった証拠ではなかった。
 伸子は、たしかに、ひとりになってからの生活に起伏する何ごとかについては沈黙して来ている。長年かくしだてなくいっしょに暮して来ている素子が、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]にいて、パリの伸子がよこす手紙の下から、何か語られていないものがある感じをうけるのは、当然だと思わなければならなかった。ほんとに、このごろの伸子は素子に話さないこころの揺れにゆられているのだから。
 それを字にかいてしまえば、もうそれは現実なものとなってしまいそうに不安だものだから、水が渦巻くように怨みごとをつらねながら、なお率直に、きみは、おおかたわたしのいないところで恋愛でもしているんだろう、ときめつけることもできずにいる素子の、素子らしい苦しみかた。――
 素子にうちあけていないのはよくないとして、でも、このごろの蜂谷との微妙な格闘を、伸子は何と素子にしらすべきなのだろう。寝台のかけものの上で掬ってはおとしていた手紙のきれを、伸子は少しずつつまんで傍の封筒へいれて行った。結局蜂谷良作は蜂谷良作であり、伸子は伸子としてのこるだろう。その予感が、こんなにはっきりしているのに。その予感にかかわらず、伸子のこころは、あるところまで決して退場することなしに、この経験を追求しようとしているかたい決心のようなものがあるとき。――伸子は、このすべてがここであるままに、素子に話せようと思えないのだった。
 あくる朝、ベルネの家の朝飯がすむとすぐ、伸子はクラマールの郵便局へ行った。そして、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の素子へ電報をうった。ブ コアヤマル キゲ ンナオセ モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]デ オコツテイルトアタマニワルイ。素子の不安の動機には伸子の責任がある。伸子はそれをすなおにみとめずにいられない。だけれども、素子が苦しんでいるからといって、伸子はどんな風に自分のコースを曲げるとも考えられないのだった。それらの点について、伸子は素子にごめんなさい、というこころもちだった。

        十六

 ことわりなしで、蜂谷良作がおきまりの講義に来なかった。あくる朝になっても、おとさたがなかった。
 伸子は、どうしたものだろう、と思った。考えてみれば、彼の下宿先は、年をとって孤独な画家未亡人の二階で、ちょっと気軽に使いをたのめる人も、そこの家にはいないわけだった。そとでは、冬のはじめの雨が降っている日だった。散歩がてら、蜂谷の下宿へよってみる気で、伸子はひる前にベルネの家を出た。
 雨にぬれて人通りのないパリ郊外の街は静かで、日ごろから門の扉もあけはなされたまま荒れるにまかされている蜂谷の下宿の前庭には、浅い水たまりが出来ている。伸子は、誰も住んでいない一階の隅から、二階への階段をのぼって行った。ぬれた靴が、階段に跡をつけるのを気にしながら。
 伸子は、下宿の未亡人が暮している一つの室のドアをノックした。
「おや、マドモアゼル」
「こんにちは、マダム。
前へ 次へ
全437ページ中345ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング