潟Xとフランスだけであることが明瞭だった。ベルネの一家は恐慌の打撃にたえたフランスの手堅さに満足して、食卓で息子のジャックをはげましながら洗濯工場の燃料泥棒をつかまえなければならないことについて相談している。
伸子の生活は、ベルネのおばあさんやアルベール夫婦にとって興味をひく特別の何もないようだった。ヴェルダンから伸子がおみやげに買ってかえった記念スプーンを、
「――銀ですよ!」
おばあさんが目顔でうなずいて、
「|御親切にね《トレ・ジャンティ》」
とあらためて伸子に礼を云いながら、娘であるベルネの細君にわたし、細君はそれをベルネの主人にまわして一同が見たほかには。
だがそんなベルネの一家のなかで、十六歳のフランシーヌのそぶりは、伸子に何かを感じさせた。
伸子はある午後、クラマールに住んでいる画家の柴垣とモンパルナスの美術書籍の店と、いくつかの画廊を見に行く約束をしていた。その店にマチスのデッサン集があった。そのデッサン集を伸子は見飽かなかった。マチス自筆の署名いりで、番号のはいった限定版であった。パリを出発する準備にいくらかずつ画集をあつめていた伸子は、他の三四冊あきらめてもそのデッサン集がほしくて、柴垣にも見てもらいたかった。
約束の午後、どうしたわけか柴垣は誘いに来なかった。待ちぼけになった伸子は、日ぐれがたモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ出す手紙をポストしに町へ行って、思いがけず郵便局のわきで柴垣に出会った。
「あら」
柴垣と伸子とは互に目を大きくして眺めあった。
「きょう、御都合がわるかったの?」
「いいや」
いぶかしそうに、そしてしらべるように柴垣は伸子を上下に見た。
「あなた午前中から留守だったんじゃなかったんですか」
「いいえ」
「うちにいたんですか?」
「いたわ。あなたがいらっしゃらないから、これを書いたわ」
素子あての厚い角封筒をふってみせた。
「ふーん」
考える目つきで伸子を見つめながら、柴垣は片腕を大きく肩からふって指をはじき鳴らした。
「いっぱい、くったかな」
約束の時間にベルネの玄関へ行ったら出て来たのはフランシーヌで、伸子はひる前から出かけていると告げたのだそうだった。二階にいて伸子は知らなかった。
「ちょいとしたことをやるんだな、あの娘。――僕はそうとは思わないでね、急に何かの都合で、あなたの予定が変更されることもあり得るんだろう、と思ってね」
ほほ笑みとも云えないしわが、柴垣の口辺によった。このごろ蜂谷良作とばかり歩いている伸子への感想が、総括してそこに意味されているのだった。
「おめにかかってよかったわね」
強いて何も説明しないが、誤解をのぞんでいない者の表情で伸子が云った。
「どなたとでも、お約束はお約束よ」
「いや、それで僕もさっぱりしましたよ」
伸子はベルネの家の方へ柴垣は郵便局のある電車通りを先へ、わかれた。
その|秋の展覧会《サロン・ドオトンヌ》には、パリで客死した磯崎恭介の作品と遺骨をつれて日本へ帰って行った須美子の作品が入選している。ほかに、石井柏亭の「果樹園」が二科から特別出品されて注目をひいていた。アマンジャンのシャボン箱の絵のようにただきれいな翡翠《ひすい》色と瑠璃《るり》色の効果を重ねた婦人像と同じ壁の一方にかけられて「果樹園」は現代古典のおもむきを示した。日本の展覧会場でその絵を見たとき、伸子は「果樹園」の画面に線がこれほど特色のある役割をもっているとは心づかなかった。サロンの出品画が多くが、気がきいて警抜な色の効果、コムポジシォンなどばかりを目ざしているので、「果樹園」の正統派のつまらなさが面白かった。そのころパリに滞在していた日本のある漫画家も、支那靴をはいた足で鬼を踏まえている鍾馗《しょうき》の大幅絹本を出品したりもしている。その墨絵は伸子に五月節句の贈りもののようにしか見えなかった。
もう一度、みんなで観ておこうという話がクラマールに住む日本の人々の間にきまった。
その午後、伸子は早すぎると思ったが、定刻より三十分も早く、物置の二階をアトリエにしている画家の亀田夫妻のところへ行った。蜂谷良作も来るはずだった。それで伸子も早めに来たと思われはしまいか。伸子はめずらしくすこし気をひけてアトリエをあけたら、意外にも、そこには一座の顔ぶれがそろっていたのだった。
「みなさん、たいへんお早かったのね」
「ええ。ですから、お迎えにあがったんですわ」
絹の外出着の上からはでな色模様のゴム製エプロンをかけた亀田の細君が若々しくさえずるような調子で料理兼用のストーヴのわきから伸子に云った。
「おもったより、早くいらっしゃれてよかったわ、ねえ、あなた」
「うん」
むかえに行ったって――誰が、誰を、迎えに行ったのだろう――伸子は誰か
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