ソがいのまま、その流れを流れて、瀬におちかかろうとしている。男と女の瀬に――。だけれども、これが恋だろうか。愛でない恋――伸子には、わからない。
 蜂谷良作が、感情の投げ繩を投げることにだけ熱中していて、しきりに繩を投げながらも動こうとしないで立っている自身の位置――彼の生活と思想がたっているところ――に目を向けないでいることも、伸子をわからなくする。しかし、蜂谷の投げ繩は伸子の体すれすれにとどいたし、蜂谷の知らない瞬間に全く伸子の感覚をとらえていることがある。たとえばこんなとき――
 ベルネの食堂のテーブルで、例の煖炉よりの側に蜂谷良作が、ドアよりに伸子がかけておきまりの勉強がはじまっている。蜂谷はもち前のチューブから圧し出す声で伸子にノートさせる。
「先ずロビンソンをその島に出現させよう。ロビンソンは本来質素な男であったとは云え、充足させるべき諸種の欲望を有し、したがって種々な有用労働をしなければならなかった。彼は道具や什器《じゅうき》をつくったり、騾馬《らば》を馴らしたり、漁をしたり、狩をしたりせねばならなかったのである」
 ああ、これが有名なロビンソン物語――伸子は鉛筆を働かせながらそう思った。利根亮輔をロンドンで、大英博物館図書館にかよわせていたロビンソン物語――
「彼の生産的機能は種々異っていたとは云え、いずれも同一なるロビンソンの相異った活動形態にすぎず、換言すれば人間労働の相異った様式にすぎないことは、彼の知るところであった」
 それは当然そうであろう。ノートの手を止めず伸子はうなずく。難破船から時計、帳簿、インク、パンなどを救い出すことのできたロビンソンは、やがて種々な生産物の一定量を得るについて平均的に必要な労働時間を示す表をつけはじめるようになった。ロビンソンは、彼自身の必要のために働く時間を、それぞれの働きの間にわりふらなければならず、
「いずれの機能が彼の全活動の上により大なる範囲をしめ、又いずれがより小なる範囲を占めるかは、所期の利用上の効果を得るにあって、うちかつべき困難の大小にかかるものであった」
 何とおそろしく四角ばった云いまわしだろう!
「ロビンソンと彼自身の手で造り出された富を構成する諸物件との間における一切の関係はこの場合きわめて単純明瞭である」
 伸子の理解の段階にあえて必要でない引用の固有名詞をとばして、蜂谷良作はつづける。
「しかも価値決定の上のあらゆる本質的要素は、この関係の中にふくまれているのである。今、ロビンソンの明るい島から陰暗な中世ヨーロッパに目を転じよう。ここには独立した人間はいないで――」
 伸子はノートから頭をあげた。
「ちょっと――ごめんなさい。ロビンソンはそれでおしまい? いきなり中世ヨーロッパとなるのかしら」
 中断されて、蜂谷は手にもっているテキストへ視線をおとし、伸子を見ずに答える。
「それでいいんだ」
「『金曜日《フライデー》』は出て来ないの?」
 伸子は、こちらを見ようとしない蜂谷の顔を見て訊いている。
「価値の原形を分析しているこの部分は、フライデーの出現からきりはなして扱われているんだ」
 視線をさけ、まじめな表情で答えている蜂谷の顔に向って、突然伸子の感覚がかきたてられた。その唇にひきつけられて。――だが、蜂谷は心づかない。伸子がどんな渦巻にまきこまれかかったか。――伸子はノートの上に瞼をおとし、自分の動悸とともに蜂谷の声を、すこし遠いところからきく。
「いかなる人も農奴と領主、家臣と藩主、俗人と僧侶という風に相倚存――倚《き》存の倚《き》は倚《よ》るという字ね、ニンベンの――相倚存していることが見出される」

 クラマールの朝と夜は冬らしい寒さになって来た。
「|お早う《ボン・ジュール》、マドモアゼル」
と、朝の八時すぎに伸子の室のドアをノックしてはいって来るベルネのお婆さんの手はますます赤く、彼女は煖炉の火種を運んで来た。
 伸子がまだ寝台にいるわきのジュータンの上へ大前かけの膝をついて、彼女は上手に火をおこした。ベルネの家庭では、朝と夜しか煖炉の火をこしらえなかった。ベルネの家の煖炉を見て伸子はパリの屋根屋根に林立している煙突のどれもが細いわけをのみこんだ。パリの人々は、豆炭を煖炉につかっているのだった。豆炭の熱は、カッときつく顔ばかりのぼせるようで、こころもちがわるかった。煖炉の豆炭がすっかりおこるまで、皮膚をさすような匂いがなくなるまで、伸子は洗面所の窓ぎわで新聞を見ていることがある。
 アメリカの恐慌は、十一月にはいり、月の半ばに進んでも、たしかな安定は見出していなかった。これまでウォール街で働かせられていたヨーロッパの金が、大量に逆流して、ヨーロッパへ戻って来つつあった。ヨーロッパでアメリカの資本輸出とはりあうことのできるのはイギ
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