ッられた声だった。
「センチメンタルであるにしたって、それは感情の真実であり得る」
「それはそうね。――でも……感情の真実であっても、情熱の真実とはちがうことだってあるわ。感情と情熱とはちがうんだもの――感情を情熱といっしょくたにするのが、いやなの。――」
「僕にそんな区別はない」
「あら!――変だ」
 云いかけた伸子の腕が並んでかけている蜂谷の手にとらえられた。
「――こんなひとが――もうじき行ってしまう」
 体をしざらせようとして蜂谷の方へ向いた伸子の顔の上に、蜂谷の重い頭が急に落ちかかって来た。息をつめて仰向かげんにすこし開いていた伸子の二つの唇の上に、蜂谷の唇が重なった。そしてきつく圧しつけられたとき、蜂谷の唇は不意で全くうけみでいる伸子の歯にふれた。悲しそうに、ゆっくり蜂谷の唇がどいた。
「ああ。伸子さんは、接吻のしようもしらない!」
 ひき裂かれるような苦痛の感覚と屈辱の感覚が、伸子をさし貫いた。伸子は低くうめいた。蜂谷の頭が伸子の手の間にとらえられた。そして、伸子の顔の上へひき下げられた。

        十四

 まったく不安定なものになった蜂谷良作とのつきあいに伸子は抵抗しないで、自分をただよわせた。
 二人の生活の外見には変化がなかった。ベルネの家の食堂へ蜂谷が来て、そこのテーブルで「資本論」を講義し、つれだって散歩し、市中で映画や芝居を観た夜は、十二時すぎてねしずまったクラマールの通りに男女づれの足音がきこえ、やがて伸子の靴音だけがベルネの門から玄関までの小砂利道に響いて来る。
 そのようにして流れる時間のうちに、川の水が何かにあたって思いがけない時、白い波の小さい、しぶき[#「しぶき」に傍点]をあげて行くように、伸子と蜂谷との間に短いはげしいもつれがおこった。
「だめよ、ね、ほんとにだめ!」
 伸子は蜂谷の顔をさけ、ときには、手で蜂谷の顔を柔かくおしのけながら、自分の顔をそむけたり、暫くの間離れて歩いたりした。蜂谷良作はそういうとき、伸子を名でよんだり姓でよんだりした。
「あんまり無理だ。いっぺんきりなんて――それなら、僕がはじめて接吻したとき、どうして君は、自分からしかえしたんだろう」
 あの夜の瞬間の感情の激発を伸子は蜂谷にどうわからせることができただろう。伸子さんは、接吻のしようもしらない! そのひとことがあれほどひどく伸子をさしつらぬき、そのために伸子は火花になって蜂谷の唇をとらえた。蜂谷に向ってほとんどとびかかったと言えるように動いたせつな、しんから傷けられ怒っていた自分の感情を伸子は忘れることができない。それは女の動物が襲ってゆくときの感情だった。あれが、接吻だと云えるだろうか。
 伸子は、考えこんでいるためにふだんよりちんまりした顔つきで蜂谷を見た。
「あれは、やけど[#「やけど」に傍点]だったんだわ。だからくりかえしはないの」
「や、け、ど? そんなことを云って――」
 二人がそのとき歩いていたクラマールの森と町との間にある畑道の上で、蜂谷は立ちどまった。
「僕はそう思わない。――僕が思わないんじゃなくて、実際にそんなもんじゃない。――佐々さん、何をおそれているんだろう、僕にはわからない」
 蜂谷は伸子の腕をとって歩きはじめた。
「佐々さんは全く自由なんじゃないか」
「そうよ」
 自分の心を見張っているように、伏目になって歩きながら、ゆっくりした二人の歩調にあわせて伸子が答えた。
「それは、わたしは自由だわ……だけれど、わからないことは、やっぱりわからない」
「何がわからなくちゃならないのさ」
「――わたしにはわたしの気持。あなたには、あなたのきもち」
「そんなことは、もうわかりすぎてる。僕は毎日毎日考えつづけたんだ」
「――なんて?」
「佐々さん、どうしてきみはそんなにいつものきみでなくなろうとしているんだろう」
 恋とはちがう衝動、むしろ憎みに近かったとっさのふるまいが自分と蜂谷との間にある――接吻という形にあらわされて――。蜂谷良作に会うことを拒まず、肩を抱かれるようにして田舎道を歩いているけれども、伸子の心のどこかはいつも目を明いていて、これは恋でない、と云っている。ああ、伸子さんは接吻のしようもしらない! そのひとことが、あんなに自分を猛々《たけだけ》しくした。蜂谷に深い傷をつけようとするように唇を圧しつけさせた――そこに伸子のおどろきがある。わからなさがある。ヴェルダンの夜、死の都のうす暗いカフェーで、あのように自分を苦しくしていた抗議の感情、欺瞞にいきどおっていた感情、それらの激情の底まで浸りたいと願っていた感情――ヴェルダンへ泊りたいと云った伸子のこころもちと、それをきいてひそかにあわてた表情になった蜂谷良作の気持との間に、くいちがいがあった。蜂谷良作と伸子の要求はくい
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