轤煬}えなどうけなかった。まだ早いかな、と白い猿の腕にかけておいた時計を見ながら考え考え出かけて来たのだった。
「いやですわ、伸子さんたら!」
 短い刈りあげにしているおかっぱの頭を愛嬌よくかしげて亀田の細君は笑った。
「フランシーヌのおことづてで、お約束の時間よりも早くは来られないっておっしゃったじゃない?」
「わたしが?」
 あんまり思いがけなくて、伸子は茶の冬外套を着ている自分の胸のところをおさえた。
「しらないことよ」
 格子縞の毛布のひろげられている長椅子にねころがっていた柴垣が、
「じゃ、例のて[#「て」に傍点]だ」
 パイプの灰をはたきおとしながら、塩から声で云った。
「彼女はこのごろ、何かのイマージュにつかれているらしいよ。僕も経験ずみだが――イマージュが答えさせるんだ」
「いやだ――どういうことなの?」
「いいさ、いいさ」
 良人である画家の亀田が細君をおちつかせるように彼女の肩をたたきながらあっさり云った。
「きみが行ったことはたしかなんだし、伸子さんも早く見えたんだから、それでもういいさ」
 細君の好奇心は消えないで、伸子とつれだって電車の停留場へ行く道、彼女は低めた声できいた。
「ね、伸子さん、教えて下さってもよくはない? わたし気味がわるいわ、イマージュなんて……」
「わたしにもよくわからないんだけれど、蜂谷さんがベルネのところにいらしたときは柴垣さんや皆さん、ちょくちょくあすこへ遊びにいらしてたんじゃないの?」
「ええ、宅もフランシーヌを描いたりしていましたわ」
「わたしが社交的でないからフランシーヌ淋しいんでしょう……」
 細君は、ちょっと考えるようにして、
「ああ、ね。若い娘さんとしてはそうかもしれないわね」
 そのまま数歩行って、彼女は急に、
「だって、あの娘さん、まだ子供じゃありませんか、柄こそ大きいけれど……こっちのひと、早熟だわ」
 抗議をふくんで、体にあわせては太いような声を出した。それで伸子は感じるのだった。柴垣や亀田たちは、もしかしたら細君をつれてよりもより度々、男たちだけでフランシーヌを訪問したこともあったのだろうと。
 フランシーヌの小さい細工を蜂谷良作は不快がった。
「ああいう陰性でしめっぽい娘は、にがてだ。困るな、どうも。――混乱ばかりおこって」
 ひとくみの男女の感覚の嵐が彼女の身ぢかいところでそよいでいるとき、どうしてフランシーヌに冷静がもとめられよう。フランシーヌのつやのわるい十六歳の顔の上にはそばかすがあった。このごろ、そのそばかすが濃さをましたように見える。その頬にたれている捲髪と同じように、長すぎるルーマニア風の鼻から、彼女は、
「だって――寒いんですもの」
 寒い、ということにあたりまえでない意味がふくまれているような鼻声と目つきで母親を見ながら食卓に向っている体をくねらせた。ベルネの細君は、娘の血色を美しくさせようとして、食後自転車にのって、すこし外をまわって来るようにとフランシーヌにすすめているのだった。
「ジャック、彼女といっしょに行きなさい」
 兄息子のジャックは、だまって長い膝をゆすっている。
「二人でいっておいで。ね、少し運動した方がいいんですよ」
「――寒くて」
 やがてベルネのおばあさんが、両肩から何かを払いおとすようにまずテーブルから立ち上る。つづいて細君も、主人も。彼らには午後から工場の仕事がある。そして、伸子も。奇妙なとりつぎについて伸子は、ひとこともフランシーヌにふれないのだった。
 一日が一日とすぎてゆく。伸子のパリを去る時が近づいている。蜂谷と伸子との間にある緊張はつよまるばかりだった。蜂谷良作は感情の投げ輪を一層つよく投げ、伸子は、なるたけ蜂谷以外のひとたちと行動をともにしようと考えながら、実際につれ立って出歩くのは蜂谷ばかりであったし、しかもその間に伸子は一度ならず蜂谷の投げ繩にとらえられた。彼女自身のうちにわきたつはげしさと同じ分量の疑わしさの間にいつも中途半端にたたずんだまま。伸子はもう自覚していた、自分が正気を失えないことを。そのように正気でありながらも、官能というものはほだされるものだということを。伸子の本心は恋を求めているのだった。愛にまでふかまる恋を。――ほだされている自分。伸子は手鏡をとってしげしげとそこに映る自分をながめた。そこに何か新しい美しさの添えられた顔が見出されるのだろうかと。

        十五

 ある晩、伸子は三人ぐらいならんで臥られそうな大きい寝台の真白いシーツのまんなかに上半身おき上って、煖炉の白くなった豆炭の奥にのこっているかすかな赤い光をじっと見つめていた。
 世帯もちのいいベルネのおばあさんは、葡萄酒をのまない伸子のために、いくらか食卓のたのしみがあるような心づかいをすることはなかった
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