フ、並んでぶら下って、磨かれたアルミニュームの光を放っている大小の鍋類だの、ひっそり人気ない中で、不思議に生きものめいた感じだった。鍵穴をのぞいて台所口のドアをあけている伸子のうしろから、それらの台所の生きものが無言で見はっているようで、外の踏石へのったとき、伸子はやっとほっとした。そして、いつの間にかかくれんぼ[#「かくれんぼ」に傍点]でもしているように、われ知らず緊張していた自分に、声を立てないひとり笑いをした。
おかしいこと! けさ、みんなが起きないうちに家を出て、伸子がヴェルダン見物に行くということは、ベルネ一家にゆうべから告げられていることだった。ベルネのおばあさんが、昨夜ねる前に、自慢半分、よく整頓されている台所へ伸子をつれて行って裏口の錠のあけかたを教えた。一つの秘密もないしわざだけれども、人々がそれぞれの部屋で寝しずまっている家の中で、いくつものドアをそっとあけたてしたり、静かに一人で出てゆくそのことが、どこかの部屋では誰かが目をさまして耳をすましていそうに思えるだけ、伸子の胸をかすかにどきつかせるのだった。
門まで爪先下りの砂利道を、伸子は遠慮なく歩いて、うすら寒い明けがたの通りをサン・タントワン街の方へ下りて行った。陽が出れば、これでいい天気になるのか、それとも曇天なのか、見当のつかないつめたい早朝の往来で、タバコを吸いながらこちらへ向ってゆっくり歩いて来る蜂谷良作に出逢った。
「おはよう」
伸子は、遠足へ出かける朝の快活さで声をかけた。
「早かったんだな。僕は、あやしいもんだと思っていたんだ」
「わたしが寝坊だから? でも、わりあいしつけがいいのよ、起きなけりゃならないときには、目をさませるんです」
二人は、電車通りへ出て、街角のカフェーへはいった。店内はまだ暗く電燈に照らされているカウンターのところで三四人の労働者がコーヒーをのんでいた。人の眠っている時間に起きて一日の働きに出かけようとしている労働者たちの体つきには、どことなくはらいきれない眠気ののこりがあった。伸子のわきでコーヒーをのみ終った一人が、何か考えごとをしているようにゆっくりマッチをすって咥《くわ》えているタバコに火をつけ、手首をやっぱりゆっくりと動かしてそのマッチを消し、やがて、気をとり直したように、ボタンをかけた上着の裾を左右両手で下へひっぱってから、カウンターの上においてある長方形の新聞包を脇の下にはさんで出て行った。
「――いそがなければ、いけないかしら」
蜂谷良作は、コーヒー茶碗をもっているもう一方の手首の時計をのぞいた。
「大丈夫でしょう、七時四十分までにモンパルナスへ行けばいいんだから」
ヴェルダン行の近距離列車はモンパルナス停車場から発車した。別の線をとおって行く国際学生会館の日本留学生の人たち四人と、ひるごろヴェルダン駅前のホテルの食堂で落ちあう約束だった。この間、蜂谷と伸子とが国際学生会館へその人々を訪ねたとき、誰もまだヴェルダン見物をしていないことがわかった。ちょいちょい話には出ているんだが、四人で、六人分の自動車代を払う勇気がないんでね。そういう話だった。そのとき、伸子はすぐ、わたしをつれて行って頂けないかしら、とたのんだ。一九一七年から八年、第一次ヨーロッパ大戦の終局に、ヴェルダンという名、ソンムという名は、畏怖なしにはふれられない二つの名であった。ドイツ軍にとって、それらのところは果しない潰滅の谷を意味し、連合軍にとって、そこは、果しない犠牲の谷であった。ヴェルダンをもちこたえた、その沈勇が連合軍の勝利を決定したと語られていた。休戦のとき、はたちにならない娘として偶然ニューヨークにいあわせた伸子は、ヴェルダンという名に対して無関心でいられない感銘を与えられているのだった。
この夏、ロンドンで数週間すごしたとき、イギリスではルドウィッヒ・レーンの「戦争」が非常によまれていて、チャーチルも「戦争」を読む、と、イギリスの政治家らしく雨傘を腕にかけたチャーチルがその本を手にもっている写真が広告につかわれたりしていた。
親たちはつや子をつれて五階にひろい部屋をとっていた。同じホテルの七階の小部屋で、伸子は毎晩その小説の、全く新しい理性と心情とにひき入れられながら数頁ずつ読みつづけた。レーンはドイツ軍の特務曹長として、音楽と花と国歌とで戦線に送り出された兵士たちとともにフランスへ入り、マルヌの戦闘、ソンムのたたかいを経験し、自身負傷した。遂に一九一八年ドイツに革命がおこってカイザーはオランダに亡命し、彼の属していた部隊をこめてドイツの全線が壊滅する。それまでを、レーンは冷静に、即物的に、ヒューマニズムとはどういうものか、戦争とはどういうことなのか、考え直さずにはいられない透徹した筆致で描いているのだった。ヴェ
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