I谷はマルクス主義者のようだけれども、彼の存在の底には、しつこく絶えず触覚をうごかして、マルクス主義とは別の、何かの道を見出そうとしているものがあるらしい。そういうことができるものなのだろうか。だが現実として彼は、たしかに何かさがしている。蜂谷の生活感情を不安定にしているものの本質は、内心のごくふかいところにあるそのさぐりではないだろうか。もしそうだとすればホームシックなんかではないと彼が伸子に云ったのもうそでない。
三人がいる古ぼけて大きい室の中にこそ静かな夜があるが、往来へ出ればごたついて喧噪なパリの裏町のがらんとしたホテル[#「ホテル」に傍点]に、がたついたダブル・ベッドも気にならなそうに納っている野沢。さらにそこですごされるたのしい時間をものがたるように書物や紙のとりちらかされているデスク。彼としての秩序で統一されている野沢の生活の雰囲気においてみると、蜂谷の不安定さは、これまで伸子が気づいていたどのときよりも明瞭に性格づけられてわかるようだった。
野沢のベッドのところへ、玉子のおかゆを運んだり、蜂谷と自分とはチーズをはさんだパンをかじってコーヒーをのんだりしながら、伸子は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の下宿にでもいるようにくつろいだ気持になった。
「来てよかったわね、おかゆだってわるくないでしょう」
「久しぶりに煮えたての熱いものをたべるっていいきもちなもんだな。体のなかが清潔になってゆくようだ」
伸子が野沢の室でらくらくした気分なのは、その室が十分歩きまわれるだけ広くて、言葉の心配のいらない三人のひとがいて、そこにはベルネの家族の間にはさまっているときのような裏表のひどい、うざっこさがないからだけではなかった。――伸子がいない今ごろ、ベルネのうちのものは、おおっぴらに葡萄酒の瓶を食卓の上に立てて、念入りのオールドゥブルをたべているのだろう。伸子が酒類をのまないことがわかると、ベルネの一家は、食卓から全く葡萄酒をひっこめてしまった。伸子を二階からよんで食卓へつく前に、一家のものは自分たちだけで食堂のうらの台所で、食事の前半をすますらしかった。家のものは気もちよさそうにほんのりあからんだ顔をならべていて、テーブルの上には、伸子のためにほんの申しわけのかたいソーセージが前菜として出されているような食卓は、酒をのまないからと云って、伸子に親しみぶかいこころもちを与えるやりかたではなかった。
伸子はフランシーヌの英語を通じてベルネの細君にそのことをどう云っていいかわからなかったし、蜂谷にも告げていない。今夜はベルネの食卓をぬけ出して来ている気軽さばかりでなく、蜂谷と伸子との間にある心理的なひきあいが、彼女の側として恋愛的でないことの自然さが段々会得されて来て、伸子は快活になっているのだった。
C・G・T・Uの本部で、ゴーリキイの「小市民」の公演をすることになっていた。野沢はその切符を伸子と蜂谷とに一枚ずつくれた。マルチネの家へつれて行ってくれたのが野沢であり、C・G・T・Uの芝居の切符をくれるのが、蜂谷でなくて野沢であり、その野沢は、伸子とまるで別なところで自身の生活を統一させている。
天体は、宇宙そのものの力で充実しているから運行しながら互にぶつかりあうことが少い。――野沢義二はそんな風に生きようとしている人なのかもしれない。伸子はそう思った。それにくらべると、蜂谷良作は、全体が柔かくてふたしかで、潰れると液汁が出る。自分はどうなのだろう。ぼんやり考えながら、メトロにゆられていた伸子は急に目がさめたように、ああ、そうだ、こんやこそ忘れずに、帰ったら、手紙を書かなければ、と思った。最近になって伸子は、マダム・ラゴンデールの稽古をことわろうと思っているのだった。パリにいるのもあと半月たらずだったから、マダム・ラゴンデールの稽古のために、観たいものの多いパリの十一月の午後のまんなかの時間をうちにいなければならないことは、伸子にとって不便になって来ている。市内から遠くはなれたクラマールまで来るマダム・ラゴンデールのためには、月謝もよけい支払われている。
あと半月でパリにいなくなる――それは伸子にとってわかり切った計画だった。それがそんなにわかりきっていて、動かせないようにきまっているということが、伸子に奇妙に思えた。
十一
人々の眠りをさまさないように、伸子はそっと部屋のドアをあけて、廊下へ出た。階段のところに、やっと白みかかったばかりの初冬のつめたい光が漂っている。伸子は足音を立てないように階段をおりて食堂へはいり、そこを通りぬけて更に台所へ出た。ゆうべ、きちんと後片づけされたまま、けさはまだ誰にも触れられていない台所道具は、煉瓦じきの床の一方にどっしりとすわっている料理用炉だ
前へ
次へ
全437ページ中330ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング