泣_ンときいて、とっさに自分も観たいと思った伸子のこころもちは、レーンの小説がそのなまなましい描写とともに、いつかのこして行った、何かの問題の疼きが、計らず目をさまさせられたからだった。
 ヴェルサイユ門からモンパルナスまで、パリを南から北へ走る午前七時の地下電車にのりこんで、伸子はしばらくの間、息のつまるようなおどろきにうたれた。車内は労働者の群でぎっしりこんでいる。それはとりたててどんな混雑もない代りにもうこの上三人のひとのはいりこむ余地はどこにもないという事務的な詰りかたで、小柄な伸子の肩は隣りに立っている労働者の荒い縞《しま》の上衣の腕の辺にぴったり押しつけられているのだった。伸子が心からおどろいたのは、車内につまってそれぞれ工場へ運ばれている労働者たちが、手に手にひろげているのは「リュマニテ」であるという発見だった。早朝のメトロにのりこんでいるこれらの人々はみんな鳥打帽をかぶっている。カラーをしていない頸筋のところを、パリの労働者らしい小粋な縞のマフラーできちんとつつんで上衣のボタンをかけている。弁当の新聞包みを脇の下にはさんで「リュマニテ」をよんでいる人々の間に、話声はなかった。轟音をたて、パリの地底を北へ北へと突進しているメトロの中で、つめこまれ、かたまって揺られている労働者たちは、無言で、ひとりひとりの生活につながる注意ぶかさで共産党の機関紙をよんでいる。そこには労働者である人々の、階級の朝の光景があるのだった。
 朝出の労働者の黒い林と、うちつづく「リュマニテ」の波の下に、背の低い伸子の体がうずまった。動揺につれて隣りの労働者がよんでいる新聞の端が伸子のベレー帽をかすめる。そのたびに伸子は、印刷されたばかりの真新しいインクの強いにおいをかぎとった。
 いつも十時ごろのメトロにのって、腹の太くなりはじめた年輩の山高帽の男たちが、云いあわせたように「人民の友《アミ・デュ・プープル》」をひろげている光景ばかりを伸子は見なれて来た。そして、「マ・タン」をよむような階級の男女は、大抵自動車をつかって居り、メトロにのるにしても一等車にのり、伸子がいつものっている並等には入って来ないことをも知っていた。だけれども、朝七時のメトロがこんなにも壮観な労働者階級の生活を満載して走っていようとは。――
 モンパルナス停車場は、パリ市内へ向ってはき出されて来る通勤人でこみあっているけれども、その時刻にパリから出てゆく人は少くて、伸子と蜂谷良作の乗った車室は、ほとんどがらあきだった。働きに出る多勢の人をつんで、いそいでやって来た汽車は、こんどはゆっくり市外へ引かえしてゆくという風に、一つの駅に停るごとにバタンと重い音を立てて狭いドアを開閉させながら、上天気になった郊外の朝景色の間をだんだん東へ、丘陵の重なるロレーヌ地方へとすすんでゆく。
 車窓には、眩《まぶ》しくない方角からの朝日がきらめいた。伸子は、窓ぎわへかけて飽かず外の景色を眺めた。蜂谷良作は、車体いっぱいの幅にはられている奥ゆきの深い板の座席の、伸子からはなれたところに脚をくんで、ポケット地図をひろげている。伸子は何か云いたそうにして、一二度蜂谷の方を見た。すがすがしい初冬の朝の景色、閑散な汽車のなかは伸子を遠足の気分にくつろがせ、ものを云いたい気持にさせている。トロカデロを長く歩いた夜以来、蜂谷良作はそれまでのように伸子のために資本論を講義し、つれだって出かけもしているが、二人きりになると、とけないぎごちなさがのこった。それは蜂谷の正直なぎごちなさからだと思われ、ときには、彼として伸子に傷つけられた感情のあることを知らしている態度かとも思われた。同じ座席にはなれてかけて、地図を見ている蜂谷良作の沈黙をやぶって自分のおしゃべりにまきこんで行くほど、伸子は天真爛漫でもないのだった。
 ヴェルダンの駅へおりて、伸子はあまり深いあたりの静けさと、その静けさにつつまれて輝いているステーションの建物の白さにおどろいた。どこからどこまで真白いステーション。それは目に馴れない宗教的な清潔さだった。ほんのちらり、ほらり駅前広場へ散ってゆく人々にまじって、伸子と蜂谷良作とは、国際学生会館からの人たちと落ち合う約束になっているホテルへ行った。小規模なそのホテルの食堂も、白と金とレースカーテンのほのかなクリーム色に飾られて、喪服の年とった婦人がひとり、むこうのはじの小食卓についている。すらりとしたその黒い姿も、クリーム色のレースのひだに柔らげられて、あたりは寂しい昼間の明るさにみちている。伸子は思わず小声で、
「しずかねえ」
と云った。
「何て、どこにも音がしないんでしょう」
 注文をききにきた給仕に、
「町はどっちの方角にあるのかね」
 蜂谷良作が訊いた。
「ムシュウ」
 給仕は、ナプキンを下げ
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