Aあらかじめ準備した。こんなあんばいで、わたしのしなければならなかったはずのことをみんなやって貰えて、大いにたすかったわけだけれども、と素子のこまかいペンの字が、原稿用紙の枠をはずして語りつづけていた。お母さんは、初めっからモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]では大使館へ行かず、藤原氏のところへ行く予定でいられたのだろうか。多計代だけが大使館へ行く佐々泰造やつや子その一行の人々と停車場でわかれ、藤原威夫の自動車にのって、彼の住んでいる室へ行った。そして、その夜、シベリア鉄道へのる日本人の一行がボリシャーヤ・モスコウスカヤ・ホテルで会食する時間が来るまで、多計代はずっと藤原のところにとどまっていた。多計代の行動について素子は言葉すくなく報告を結んでいる。お父さんがついて居られてのことなのだから、わたしが、とやかく、くち出しすべきでもないと思ったから、と。
 その手紙をうけとったのは、クラマールに晩秋の雨がふっている昼だった。赤銅色の秋の梢にかかる明るい雨脚を眺めながら、伸子はベルネの家の二階の室で、壁と衣裳箪笥との間に置かれて肩のつまるような気持のする机に向って、くりかえしその手紙をよんだ。
 素子のかきぶりは、簡明で、一つも余分な感想はつけ加えられていなかった。多計代のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]での行動が、それだけ語られている。クラマールという遠くはなれたところでそれを読む伸子にとっては、素子が冷静に書いているというそのことのうちに、息をつめていた彼女の顔つきが見えるのだった。ぶこちゃんが一緒に帰って来たがらなかったのもわかるような気がする。しかしね、ぶこちゃんがかりに一緒にモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰って来たとしたら、果して同じことが起っただろうか。そこのところは、わたしにもわからない。――素子のこの表現もデリケートだった。伸子がみんなと一緒にパリを立たず、あとから自分だけでモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ帰ろうときめたことについて、素子は前後して書いている手紙のどこにも、その問題に触れて自分のはっきりした意見は示していないのだった。
 伸子のこころもち、というより考えは、素子からの手紙によって、ふたとおりにも、みとおりにも動かされた。多計代がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へつくなり、停車場から自分だけ藤原威夫の住居へ行って、一日じゅうそこにとどまっていたということは、伸子に、意外というよりも複雑なニュースだった。何の意味があって多計代は、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]でそんな、こと更らしいふるまいをしたのだろう。
 ことしのはじめ、伸子が肝臓炎になってモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]大学の附属病院に入院していたころ、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]駐在の日本大使館づき陸軍武官は、二人に増員された。酒のみで、いつも豪放|磊落《らいらく》らしくふるまっていた木部中佐を補佐する意味で新しく赴任して来たのが陸軍少佐の藤原威夫だった。そういうことについては何にも知らず、一月はじめから入院生活をしていた伸子は、病気がのろのろと恢復しつつあった二月末のある日、突然、藤原威夫の訪問をうけた。彼は初対面の伸子に、自分を全く個人の資格で紹介した。昔から佐々の家庭に出入りしているある男の長男が、偶然藤原の細君の妹にあたる娘と結婚することになったことから、その披露の席で藤原威夫も佐々泰造と多計代とにちかづきとなった。彼がモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ赴任すると知って、ぎりぎりの出立前夜、多計代が藤原威夫の家を訪ね、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ行ったらぜひ伸子の様子を見て、こまかに知らせてほしい、とたのまれたので、と。
 藤原威夫の禅坊主のような骨の高い頭のてっぺんは、まじめな軍人として、軍帽ばかりかぶりつづけて来た男らしく、年に似合わず薄くなっている。万事が周密で、粗大なところのない口調だった。そのなにげない話しぶりで、彼は、そのとき、伸子に、日本の天皇についてどういう考えをもっているかと質問した。一九一七年にロシアはツァーを廃した。フランス革命はルイ十六世をギロチンにかけた。伸子は、ソヴェトの社会に共鳴しているときいているが、日本の天皇というものは、どう考えているか、というのだった。伸子は、本能的な警戒を感じた。自分の思想[#「思想」に傍点]が、軍人によってしらべられている、その事実をはっきり感じた。
 革命の理論として日本の天皇についてまとまった認識をつかんでいない伸子は、はげしい警戒心に刺戟されて、むしろ逆襲的な反問をした。日本とロシアとは、それぞれ別の条件に立っているのに、なぜ天皇について、ここ
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